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ヘッドギアをつけて、練習生とのスパーリングに汗を流していた。その身のこなしは紛れもない、「高橋直人」だった。フロントには著名人の色紙が数多く掲げられ、マーク堀越とのあの激闘を伝える資料が貼られていた。
簡単な、我ながらよく分からない自己紹介をして『あしたのボクシング』を差し出した。
「たまたま今日、インターネットで見たんだ、マーク堀越戦はベストじゃないって書いてあった」
開口一番、会長は言った。気を悪くされたかなあ。
わたしが該当のページを開くと、会長は暗くて見えないと言って、開いたままの本を持って、奥の、明るいトレーニング・ルームへ姿を消して、すぐに戻ってきた。この人、おれのことをずっと見てくれていた、というようなことをひとりごとのように言ったことが聞こえたので、ほっとした。
別室へ案内くださり、そこで話をうかがうことができた。
初めに何をどう訊いたのか、よく覚えていない。
名勝負・マーク堀越戦について、テレビで観戦していたけれど、あの試合、フィニッシュ・ブローが映っていませんよね、たぶん右ストレートだと思うんですけど…などと口走ったのではないかと思う。それを端緒に、高橋会長はざっくばらんにいろいろ話してくれた。現役のころから記者泣かせだと自ら言われるように、その饒舌ぶりは率直で、気持がよかった。
失礼なんだろうが、わたしは今里光男との日本タイトルマッチ2連戦が大好きだ。殊に王者と挑戦者、立場をかえての2戦目が、五月の空のような印象で、あんなふうに自在に体が動いたらいいなあと思ったことを今もって忘れていない。ほんとはあのような試合をしてくれたことへの御礼が言いたかったが、とうとう口に出せなかった。
マーク堀越やノリ・ジョッキージムとの試合によって、今では《逆転の貴公子》と呼ばれるけれども、それについてはどう感じているのか、最後に訊いてみた。
「べつに逆転しようと思って試合をしたわけじゃないけれど、それでもそう言われることで覚えてもらえるなら、それはそれでいい」
そんな応えだったと思う。
実はその著書『殴られた犬の誇り』をわたしは鞄に忍ばせていた。願わくはそこにサインをいただこうの腹があったが、これもまた言い出せなかった。言えばきっと二つ返事で応えてくれたと思うが、それじゃあまりにももったいない。次回の愉しみにとっておこうと思いながらジムをあとにした。
青春という言葉は使いづらいが、それに具象のイメージをあたえよとなれば、その一つに「高橋直人」というボクサーを、そのボクシングを、わたしは提示する。
[2005/04/11 記]