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或る時、修練の一環で50km踏破というものがあって、参加した。夜中の12時に駅に集合して、そこから50km先のゴールを目指す。
スタート直後はみんな走った。白装束集団が夜の町を疾駆していった。余計なものは持ってきてはいけないって言われたから、道着ひとつで臨んだ。というのは嘘で、実は懐にアルミホイルで包んだパンケーキをしのばせていた。
集団がばらけてきて、さすがに走るものもいなくなって、数十人がてんでんばらばらに歩きはじめたころ、隣をいく同い年の友人に囁いた。
「あのさ、おれさ、実はこんなもの持ってきたんだけど、食うか」
私同様、小心で生真面目な友は一瞬目を輝かせてから、前後を窺った。
手早くほおばった、まではよかったが、ふたりとも口に入れたパンケーキがなかなか飲み込めない。ようやく飲み込んだものの、口の中はねちゃねちゃして、食い物は胃の腑に落ちずに喉から食道にかけて粘りついている感じ。急激にノドが渇く。
くらがりに自動販売機の明りが見える。人影ひとつ。近づくと師範が佇んでいる。小銭入れを握って、どれにしようか考えている様子。
きたねえな、とは思ったものの、持ち合わせのない者は、何食わぬ顔に、もしやの期待を秘して、ホントは滲ませて、歩をゆるめたんですけど、お気づきになりませんでしたか。
「おい、お前ら、のど渇いてないか。カネないなら貸してやるぞ」
とかなんとか、大柄なその体に似合った、慈悲深いお言葉いただきたかったなあ。背後からの、すがるような、哀れみをふくんだ視線、お感じになりませんでしたか。
師範といっても、いちばん格下の師範だったから、入門して日が浅いわれわれの指導にあたっていたあなたは、気さくで助平で、時に禁じ手のカンどころなんかをこっそり教えてくれて、嫌いじゃなかったんですけどね。それでもこちらから気安く話し掛けるなんて、とんでもないこと、そう信じていました。
小柄で物静かで、それでいて、あたりを払う空気が漂うT師範の一挙一動には、いつも遠見から注目していました。突きでも蹴りでも、放たれたその瞬間に、シュパンッという音がして、道着が、糊のきいた洗濯物みたいにぴーんとなって、憧れましたね。
高みにいる人は風貌まで似通ってくるのか、極真の数見肇も物静かな様子ながら、緊張感の中に潔さが見えて、初めて見たとき、ユーリ・アルバチャコフの面影をだぶらせていました。
話が横道に入ってしまいましたが、残り50kmになったところで、裸足になれという指令が前から順繰りにとんできた。だけどね、もうどうでもいい。裸足でも裸でもよござんすよ。
かくて、師範、自販機で思案、という絵柄がいまだに残って、食い物だけじゃない、飲み物の恨みは恐ろしいという、こちらはきわめて低俗な話。
[2003/10/29 記]