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Eva Marlene Futch。 のべ21名の世界チャンピオンを育てた伝説のトレーナー、エディ・ファッチの未亡人である。カードには、選手にバンテージを巻く名伯楽の手が、大きくプリントされていた。 昨年は、ファッチが亡くなって3度目のクリスマスになる。2001年10月10日、彼は入浴中に静かに目を閉じ、息を引き取ったそうだ。享年90歳だった。 未亡人の住所はラスベガスとなっているから、彼女がファッチと過ごした場所で、今も生活していることが窺えた。 ファッチと初めて言葉を交わしたのは、1996年の12月5日である。WBUライトヘビー級タイトルマッチ、ジェイムス・トニーvs.モンテル・グリフィン戦が、私の住むネヴァダ州リノで催された。ファッチはセコンドとして、グリフィンに付き添っていた。数カ月前にマジソン・スクエア・ガーデンでアンドリュー・ゴロタと乱闘事件を引き起こした愛弟子、リディック・ボウと袂を分かったばかりだった。 ボウについてコメントを求めると、彼はピシャリと言った。 「今、ボウがどんなトレーニングをしているか分からないし、知りたいとも思わない。私にはもう、関係がないんだ」。 トレーナーとして芽が出たのは60歳を過ぎてからという苦労人であるファッチの、厳しさを感じた。 この時、私は米国で暮らし始めて4カ月目であった。意味不明の、聞き取り難い英語を喋っていたに違いない。なのに彼は、温かく、そして丁寧にインタビューに応じてくれた。 翌日、グリフィンはトニーに判定勝ちし、WBUタイトルを獲得。その3カ月後にはロイ・ジョーンズ・ジュニアに失格勝ちして、WBC同級王者に。ファッチが育てた最後の世界チャンピオンとなった。 「今度、ゆっくり自宅においで。キミが望むだけインタビューを受けてあげるから」。 別れ際に、彼はそう言った。自分の拙い英語で、伝説のトレーナーに取材などできるかな、という不安もあったが、ロイ・ジョーンズ・ジュニアvs. モンテル・グリフィン戦の後に思い切ってトライした。私にとっては、エディ・ファッチが、英語でロングインタビューする初めての人となった。 ラスベガスの閑静な住宅地で、ファッチは孫ほども歳の離れたエバ夫人と、仲むつまじく暮らしていた。 「選手をボクサーとしてより、人間として知らなければダメ。才能よりも、ボクシングに対する姿勢が重要だ」 と語った。一度は統一ヘビー級チャンピオンとなりながら、ブグブクと太り、堕落していったボウを見捨てた理由がよく分かった。「人生において、何よりも尊いものは努力だよ」とも話していた。
日本人が新年の挨拶に年賀状を出すように、合衆国ではクリスマスカードを交換し合う。12月23日、思いがけない人から、A4サイズの大きなカードを頂いた。
★エディ・ファッチが育成した、のべ21人の世界チャンピオンたち
▼バンタム級
ウェイン・マッカラー/ジョニー・タピア
▼ライト級
アレクシス・アルゲリョ/トニー・ロペス
▼ウエルター級
ダン・ジョーダン/ヘッジモン・ルイス/モーリス・ブロッカー/マーロン・スターリング
▼ミドル級
マイク・マッカラム
▼ライトヘビー級
ボブ・フォスター/マイケル・スピンクス/マイク・マッカラム/バージル・ヒル/モンテル・グリフィン
▼クルーザー級
マービン・カメル
▼ヘビー級
ジョー・フレジャー/ケン・ノートン/ラリー・ホームズ/マイケル・スピンクス/トレバー・バービック/リディック・ボウ
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| M・スピンクス、J・フレージャーら愛弟子も集った89歳のバースデーパーティにて |
私は彼の言葉を忘れないように、英語を学んだ。27歳にして、ネヴァダ州立大学リノ校ジャーナリズム学科の学生となり、必死で授業に出席した(それでも<超>のつく、劣等生だったが・・・)。
何とか英語でのインタビューをこなせるようになった翌年、ファッチはトレーナーを引退した。時々、ラスベガスのビッグマッチで顔を合わせたが、いつも疲れているようで、長時間の会話は持てなかった。そして結局、最初で最後のインタビューが、“あの日”ということになった。
クリスマスカードを見ながら、様々な思いが頭を駆け巡る。「ファッチがあの時受け入れてくれなったら、今の自分は無い」と実感する。
私は売れている書き手ではないし、偉そうなことを述べるつもりもないが、今後も、ファッチの教えを忘れずに書き続けることこそ、使命だと思う。未亡人に、そんな内容のカードを送った。
[2004.01.20 記]