トップ通販案内編集部より
EDITORS report〜編集取材記〜
Web連載掲示板ど忘れ確認用! 資料編MAIL
ボクシングジムLINKボクシング情報LINKその他LINK
■在米ライター林壮一の米国取材記■

〜筆者&編集部特選! 再録ノンフィクション“REY TIME”〜

vol.1 堕ちた伝説 [レナード vs カマチョ]

 白い長袖のシャツと黒いスウェットに身を包んだ“敗者”が記者会見場に姿を見せた。両目の周りは無残に腫れ上がり、重い足を引きずっている。自分一人では歩くこともままならない。両脇にいたセコンド陣に抱えられながら、ようやく席に辿り着いた。その姿は、実際の彼の年齢である40をとうに過ぎ、初老と呼ぶほうが相応しいほどだ。

 男の名は、シュガー・レイ・レナード。古くからのボクシングファンなら忘れることのできない伝説のボクサーである。

 1956年5月17日、サウスカロライナ州ウイミルトン生まれ。本名、レイ・チャールズ・レナード。幼い頃は貧しく、クズ篭を漁るような生活だったという。

 12歳でボクシングを始め、20歳でモントリオール五輪、ライトウエルター級の金メダリストとなる。翌年、プロ6回戦デビュー。その後26連勝し、WBC世界ウエルター級タイトルを獲得。モハメド・アリとともにアンジェロ・ダンディを師に持つ彼は、文字通りアリの後継者となった。2度目の防衛戦でパナマの“石の拳”ロベルト・デュランに判定負けしタイトルを手放すが、5ヵ月後のリターン・マッチで雪辱。第8ラウンドに戦意を喪失したデュランが、「No mas」と叫び、試合を放棄したのは今でも語り草になっている。

 '81年9月にはWBA同級チャンピオンのトーマス・“ヒットマン”・ハーンズとの統一戦のリングに上がり、中盤までポイントをリードされていたものの、14ラウンドにハーンズを滅多打ちにしてTKO勝ちを収める。この試合は「今世紀最高の試合」と形容されたが、事実レナードのボクシングは強さと巧さの上に華麗さを含み、眩しすぎるほどに輝いていた。そのひとつひとつの動きは、ボクシングという競技を“芸術”の域に到達させていた。

 翌年11月、網膜剥離に見舞われチャンピオンのまま引退するが、アクシデントを克服し、2年後にカムバックを果たす。が、満足なファイトができなかったと再引退。さらに2年7ヵ月のブランクをつくった後の87年4月、当時無敵を誇り、12度にわたる防衛に成功していた世界ミドル級王者マーベラス・マービン・ハグラーに挑戦状を叩き付け、判定勝ちでタイトルを獲得する。88年にはスーパーミドル級とライトヘビー級のベルトも手中に収め、5階級制覇を成し遂げる。シュガー・レイの魅力はそのファイトスタイルとともに、常に強い相手を打ち破ってきたことにもあった。


「金に不自由はしていない。今回のファイトはあくまでも人生においてのチャレンジ」---挑戦者ながら、主役はやはりレナード(左)。
 だが、いかなるスーパーチャンピオンでもいつかは老いる。彼の栄光は現実的にこの88年までだったと言える。翌年、WBCスーパーミドル級タイトル防衛戦として行われたハーンズとのリ・マッチをドローでクリアしたものの、内容的には完全に「負け」であった。また、その半年後にデュランと3度目のグローブを交えた時も、衰えは隠せなかった。この辺りが潮時であったのだろう。しかし、レナードは91年9月に、現WBCジュニアミドル級チャンプ、テリー・ノリスの持つタイトルにチャレンジ。大差の判定で敗れ、若いボクサーの“踏み台”となる。ノリスはこの試合を境に一躍人気選手となっていった。一時期タイトルを失っていたこともあるが、現在も世界チャンピオンの座に君臨している。

「シュガー・レイ・レナードが、6年ぶりにまたカムバックするそうだ」

 そんな情報を耳にしたのは、96年11月のWBA世界ヘビー級タイトルマッチ、マイク・タイソンVSイベンター・ホリフィールド戦を取材中のことだった。この6年の間に、私はボクサーからモノ書きへと職業を変えていた。

 才能のカケラもなかった元ボクサーが、こんな表現をするのはおこがましいが、私はかつて少なからずレナードに影響を受けていた。あの芸術的なステップを真似ようと試みたこともある(所詮、叶わぬ夢でしかなかったが)。

 彼が40歳にして、再びカムバックを試みる。相手も既に盛りを過ぎた34歳のヘクター・カマチョ。しかもマイナー団体であるIBCタイトルマッチ。ノリスに引導を渡されたとはいっても、今回は勝てるのではないか・・・。そんな思いが頭を掠めた。

 この6年間、レナードの名をいい形で聞くことはなかった。前妻から虐待で訴えられ、コカイン使用が明るみになり、その影響からHBOの解説者の座も降ろされてしまう。かつての英雄が身を持ち崩すという典型的な道を、彼もまた歩もうとしていた。

 そして96年7月、IBCミドル級タイトルをライバルの一人だったロベルト・デュランとヘクター・カマチョが争うことになり、そのテレビ解説をレナードが務めた。この試合はデュランが終始リードしているかに見えたが、カマチョの判定勝ちという結果に終わった。自らと死闘を繰り広げたデュランの気持ちを察しながら、レナードはカマチョに対し、「勝利をプレゼントされて、今日はラッキーだったな!」と発言。これに怒ったカマチョが「それならオレと闘ってみろ!」と防衛戦の相手に指名したのが、今回のカムバックにおけるプロセスだった。

 97年1月17日、ネバダ州ラスベガスで記者会見に望んだレナードは、「ボクサーのカムバックというと99%以上は金のためだが、私は金に不自由はしていない。今回のファイトはあくまでも人生においてのチャレンジである」と語り、引き締まったボディをTシャツの下から覗かせた。

 この試合はチャンピオンがカマチョで、レナードは挑戦者であったが、主役はやはりレナードだった。ファイトマネーもカマチョの200万ドルに対し2倍の400万ドルと発表され、キャッチコピーは“Defying the odds”と付けられた。直訳すれば「掛け率への反抗」となろうか。冷静に予想を立てれば、カマチョ有利は動かないが、シュガー・レイは何かを見せてくれるだろう。試合はカマチョの防衛戦ではなく、あくまで“シュガー・レイのカムバック戦”という扱われ方だった。全米ではもちろんのこと、世界中に読者を持つ「スポーツ・イラストレイティッド」誌も、この試合に合わせ、レナードがバンテージを巻く姿を表紙に飾っていた。

 会場で出会ったジャーナリストたちも、「この一戦だけのカムバックだろうけど、レナードが勝つのでは……」という意見が大半だった。

 だが、3月1日、1万324人の観客を埋めたニュージャージー州アトランティック・シティ、コンベンションセンターでシュガー・レイは成す術もなく敗れた。1ラウンドからカマチョのジャブにグラつき、いつKOされてもおかしくないという状態で、第5ラウンドにキャンバスに沈んだ。その姿は、ボクシング界のスーパースターだった頃の面影は微塵もなく、ただの弱々しい中年男だった。あのオーラも、華麗な技術もスピードも、何もかもが消え失せていた。仮にカマチョが1ラウンドに仕掛けていたなら、間違いなくその時点で試合は終了していたことだろう。

 違っていなかった唯一の点は、プライドの高さだった。以前のレナードは、“魅せる”ボクシングのスペシャリストでもあった。グルグルと腕を回したり、ノーガードで相手を誘っておいて、紙一重でパンチをかわし、反撃に転ずる。常に見る者を満足させる、エンターテイナーだったのだ。

 3ラウンド終盤、圧倒的劣勢にもかかわらず、彼は全盛期のように、右の拳を回して相手を挑発した。その姿を見た瞬間、私は「レナードが倒れるのは時間の問題だな」と感じた。客を沸かせるための行為ではなく、虚勢であることが明らかだったからだ。こんなレナードを見るとは……という寂しさで、胸が苦しくなった。


美しかったシュガー・レイは堕ちてしまった…。会見で苦しい言い訳をした、敗者レナード。
 敗者となりリングを降りる彼には、辛辣なブーイングと罵声が浴びせられた。私のすぐ後ろの席に座っていた地元記者も、「失望したよ」と力なく笑って会場を去っていった。

 約半時間後に開かれた記者会見で、レナードは右足ふくらはぎを痛め、闘える状態ではなかったことを告げた。そして「それが原因で敗れたとは頼むから報道しないでほしい」と付け加えた。40戦目にして初めてKO負けを味わった彼の苦しい言い訳と、自分をどこまでも正当化しようとする巧みな演出だった。見れば見るほど、哀しくなる光景だった。

 数日後、あるメディアは「彼は詐欺をした。カムバックのために練習を積んだと語っていたくせに、実際はケガでろくに調整していなかった。ファンを裏切ったのだ。ペイパービューを払い戻す気はないのか?」と唱えた。

 堕ちるところまで堕ちたスターにもかかわらず、彼は現役続投を表明している。あの美しかったシュガー・レイを誰よりも忘れることができずにいるのは、レナード本人であるに違いない。今回も、自らの伝説が進行中だった頃のヒット曲、マイケル・ジャクソンの『バッド』のメロディとともにリングに上がった。過ぎ去った栄光の日々をイメージしながら、これからも彼は幻影を追い続けていくのだろうか。

 アトランティック・シティの波の音が、闘うことでしか自己を表現できない中年男の儚さを、より深いものにしていた。

〜『PENTHOUSE』1997年6月号より

* * * * * * * * * * * * * * *

<当時を振り返って・・・>

 まさか、シュガー・レイ・レナードの試合を観戦できるとは夢にも思わなかった。40歳である彼の挑戦に、心を躍らせた。しかし…。

 西のラスベガスに対して、東のアトランティックシティー。ホテル&カジノが建ち並び、ボクシングのビッグ・イベントが行われる地である。私がアトランティックシティーを訪れたのは、リディック・ボウのラストファイトとなったアンドリュー・ゴロタ第2戦以来のことだ。

 ホテルが並ぶボードウォークは、大西洋に面している。その海は汚く「ドブ」とも呼ばれている。汚れた水面と老いたレナードの儚さが、何となくダブった。ボウの時も同じように感じたが、それ以上だった。6年半が過ぎた今も、当時を振り返って思い出すのは、憔悴し切った試合後のレナードの顔だ。

 因みにこの文章は、英訳して当時在学していたネバダ州立大学リノ校の先生に読んで頂いた。英文のタイトルは「Sugar Ray Ain't Sugar Ray NO More」というものだ。

 もし、カマチョに勝っていたら、レナードはデラホーヤに挑んでいたらしい…。一流のファイターとは、時に自分の能力を過信してしまうものなのか。

[2003.09.22 記]


ご意見、ご感想はこちら
トップに戻る