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◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
倒しきらなければ、ハグラーに勝ちはない。13、14、15、残り3ラウンズで仕留めなければ、判定はモンソンへ行くのではないか。15回戦にこだわったハグラーは今なにを考えているのか。
「時間だわ」
腕時計を見て杏子が言った。
「時間て、なんの時間?」
「友だちがテルミニ駅で待ってるのよ」
「そんな」
「面白かった。どっちが勝ったか、日本へ帰ったら教えて」
「ちょっと待ってくれ、すぐに終るぜ、ラウンドあと三つだから」
「時間なのよ」
杏子は笑ったが、こんな憎らしい笑顔、おれは知らない。おれはちっとも面白くないよ。
引き止める手だてをさがすまもなく、13ラウンド開始のゴングが鳴った。
ほんの一瞬だった。リングに目を向けて両者がコーナーを出るのを見定めて、顔を戻すと杏子は目の前から消えていた。
なんてこった。友だちのことなどハナから頭になかった。会えた嬉しさに確かめることを忘れていた。時間のことを杏子は話したのに、これもおれが浮かれていて聞き流してしまったのかもしれない。
ハグラーは相変わらず前へ、モンソンはバックステップでかわすが、このラウンドからは明らかに逃げ足だ。
落ち着け、落ち着けハグラー。チャンスは来る、必ずパンチは当たる、落ち着け。
ひとりリングを見つめながら念じたが、うわの空なのは分っていた。追うハグラーにモンソンの右が軽くヒットして場内が沸いたとき、矢も盾もたまらず、おれは踵を返して人垣をかきわけていた。
ばかやろう、あの女、ふざけた真似しやがって。スリだのちんぴらだの、ガキの窃盗団までいるようなところに女ひとりでいてみろ。ましてやこの人ゴミだ。どうなったって知らねえぞ。ばかやろう、ばかやろう。まったく、ばかやろうだ。
さっきまでは血の通った人間ばかりと感じていたが、行く手を遮る観客はどれも一様に意地悪なでくのぼうばかりだった。申し訳なさそうな顔を作って、ミスクーズィ、ソーリィ、ごめんなさい、声に出してつっかえつっかえ走ったが、腹の中では邪魔だ邪魔だ、どけどけ、どいてくれ、と叫んでいた。
入口で捕まえられると思ったが姿がなかった。首をかしげる警備員にグラツィエと口走って外へ出た。
途端に足がすくんだ。コロッセオを取り囲む十重二十重の群集。みな天を仰ぐようにしてスクリーンを見上げている。
だが、ここまで来て立ち止まるわけにはいかない。通勤ラッシュを逆走する思いで人垣に突っ込んだ。怒声罵声がとんできたが構っていられない。
昼日中なのにいつか闇の中を進んでいるようだった。
覚えてろよ。つかまえたら、弾む息を抑えて、何食わぬ顔で、見送りにきてみた、そう言って笑ってやるからな。間違っても、しめっぽい顔なんかするなよ。うるうる顔なんてやめてくれよ。そんなツラ見たくて来たんじゃないんだからな。
試合は終ったの? 途中で出てきたの? わざわざ見に来て、なに考えてるの? ばかじゃないの、あきれちゃうわ。
そうだよ。ばかだ、ちょんだと言ってくれ。そのために、おれははるばるローマまで来たんだ。路傍の奴らよ、たんと嗤え。
背後でひときわ大きな歓声があがっていた。
▼ 作 者 逃 口 上 ▼
寅治郎が出てくるところが現実で、あとは「おれ」の夢、という設定で、夢と現実を交互に書きました。こんな現実があったらこんな夢を見ませんか、ということを書いてみようと試みました。
夢で終っているので、そのあとに来る現実、カルロス・モンソンとマービン・ハグラーの本当の試合、「おれ」の恋の成りゆき、結末、これらを酔狂で技量のある方に書いていただきたい。
ご愛読(?) ありがとうございました。
2004、夏。