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■妄想家・夏野澤夫の架空小説 〜ばかばかしいけど、真剣!〜■

架空、空想、幻想、なぜか恋愛話まで…
世界ミドル級タイトルマッチ
[カルロス・モンソン vs マービン・ハグラー]

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 

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【第9章】
ローマにて(5) 〜FIGHT!〜

 オープニング・ブローはモンソンの左だった。射程の長い左が伸びてハグラーの額に当った。ハグラーはややガードをあげてヘッド・スリップでかわしながら中へ入ろうとする。モンソンはワンツーを放ちながらバックステップ。中盤、サウスポー・スタイルに変わったハグラーの右ジャブがモンソンの顎にヒット。左フックはスウェイでかわしてモンソンはクリンチへ逃げ込む。ラスト1分、ハグラーはまたオーソドックスに切り替える。モンソンの左を警戒してのことか。

 2ラウンド、モンソンの左がよく伸びる。明らかにモンソンの距離。左・左・右、左・右。モンソンの攻めは単調だが、いずれのパンチもストレートで射程があり、ハグラーは攻めあぐねているように見えた。終盤思わぬことが起こった。モンソンの踏み込みにハグラーがバックステップを踏んだとき、モンソンの左フックがハグラーの右肩に当り、そのまま左腕はハグラーの後頭部を巻き込み、ハグラーは前のめりに倒れた。すぐに立ち上がったハグラーだったが、レフェリーはダウンを宣告した。ダウンじゃないと訴えるが8カウントまで数えられる。場内は大歓声。

 なんということだ。あやういバランスに足をすべらせたことをレフェリーは分らないのか。

 険しい表情のハグラーは鋭いステップインから左右を連打。のけぞりながらモンソンはハグラーを抱え込んでゴング。

「今のはほんとにダウンなの?」

 遠慮がちに杏子が訊く。

「スリップだろうけど、レフェリーがダウンと認めればダウンになる。ロルダン戦と同じだ」

「ロルダン戦て?」

「ファン・ドミンゴ・ロルダン。あのときは1ラウンド開始早々だった。様子を見ればダウンかスリップか分りそうなもんだけど、おかげでロルダンは試合には負けたけど、ハグラーからダウンを奪ったボクサーという称号を得た。そういえばロルダンもアルゼンチンのボクサーだったなあ…。ハグラーにとってアルゼンチンは鬼門かな」

 おれは苦笑いで杏子を見た。

 杏子はどちらに肩入れしているというわけではないだろうが、寅治郎のことを思えばモンソンが勝つのがいいのだろう。しかし、パワー、スピード、テクニック、タフネス、どれをとってもハグラーがまさっている。もちろんこれだけで勝負が決するわけではない。駆け引きや体調やチームワーク、それに寅治郎が言うように地の利や精神のありようも絡んでくるだろう。それでもだ。どこをいじってもハグラーが負ける要素はないと信じ込んできた。だから不可解なダウンをとられてもおれはまだ安心していた。

 3ラウンド、4ラウンド、5ラウンド、依然としてモンソンのストレートが間断なく放たれる。そのほとんどをハグラーはかわしているが、ハグラーのパンチも届かない。強引に突っ込むとクリンチで攻めを封じられる。

 6ラウンドになってようやく右ジャブから左ストレートがヒットしはじめた。身長でまさり、ボクサー・タイプで懐ろの深いモンソンに対して、ハグラーはステップインをきかせて、ストレート主体の攻撃を続けていた。手数が逆転し、ハグラーが追い、モンソンがかわすという構図が見えてきた。それでもモンソンは連打を許さず、クリンチに逃げる。決定打こそないが、どう見てもこのラウンドはハグラーが取った。

「ねえ、前から訊いてみようと思ってたんだけどね」

 インターバルに杏子が話しかけてきて、おれは杏子を置いてきぼりにしていたことに気がついた。

「どうしてそんなにボクシングが好きなの?」

「分らないなあ」

「分らないのに好きなの?」

「うん」

「そ」

「分っていたら、も少し能率よくボクシングと接して、そのぶんラクになるんだけどね」

「でも、そしたらボクシングがつまらなくなっちゃうかもね」

「ピンポーン、かな」

 おれはここだと思って杏子に尋ねた。

「たとえばさ、好きな人ができてさ、なぜ好きになったか、その理由を原稿用紙何枚で書けなんて言われたら出来るか」

 小首をかしげて杏子は不敵に笑った。

「死んでもいいって思ったからよ」

 思わぬ角度から見えないパンチが飛んできたようで、言葉がなかった。ゴングに救われた恰好でおれはリングを見た。

 7ラウンド、前のラウンドの勢いのままハグラーの追撃が始まった。右ストレートは鋭さを増し、モンソンの顔面を襲う。接近して左がボディをえぐる。右フックが頭部を揺する。モンソンたまらずハグラーにのしかかるようにしてクリンチ。

 8ラウンド、開始30秒、青コーナー近くで間合いをつめたハグラーは右を軽く出してから、ガードの甘いモンソンに左フックをかぶせた。その瞬間、モンソンは右に体をかしげて倒れ込んだ。ダウンだ。息をつめたが、なんとレフェリーの判断はスリップ。おまけに試合を止めて、モンソン陣営になにやら指図をしている。ブーイングが起こったが、そんなことにはお構いなくモップが出てきてコーナー付近を拭いている。その後は極端にクリンチの多いラウンドになり、おれはしらけた気分になった。

「ハグラー強いね」

 おれを気遣ってか、杏子が声をかけた。

「でも、いろいろと苦戦してる。まあ、あと半分あるからこれからだよ」

 杏子はにっこり笑った。

「ね、もひとつ訊いていい?」

「どうぞ」

 あたしのこと、どう思ってる? なんて訊いてくればどう応えよう。

「アイデンティティって、なんのことかわかる?」

「え? あ、急にそんなこと言われてもなあ」

 またしても見えないパンチだ。

 アイスキャンディの味がする紅茶のことだろ。

 そう続けてやろうかと思ったが、やめた。勝気な杏子の胸の内に痛々しい部分があるんじゃないかと察したからだ。

 寅治郎のもとへやって来て、以後、あいまあいまに両親のいるパリへ戻るという生活で、彼らの関係はおれにはわからないし、その必要もない。祖父と父母との間で、強気なこのお嬢さんもたまにはめげることがあるかもしれないと、勝手に想うだけだ。初めて会ったときに出してきた手作りのケーキは父母に喜んでもらうための試作品だったんじゃないか。ケーキ作りの腕をあげて、両親に会いにいくための旅だったのではないか。その目的は果たせたのかどうか、パリで髪を切ったのは何かが吹っ切れたのか、あくまでおれの推量だから、杏子から触れてこなければ、おれのほうから事情を問うことはない。なにより痛いところに同情した顔でつけこむようなのはいやなものだ。

 さて、なんと応えようと思案の間もなく、おれは馬鹿馬鹿しいことを喋りはじめていた。

「モチベーションなら分るんだけどなあ」

「モチベーション?」

「うん」

「なに? 言ってみて」

「餅と小便なんだよな」

 言ってしまってから、うろたえる自分と得意げな自分がいることがわかって、うろたえる自分はこれは自分じゃないと訴えようとしているのに、得意げな自分がうろたえる自分を押しのけて、しゃしゃりでてしまった。

「青空の下、みんながぺったんぺったん餅をついてるんだ。ご近所総出で割烹着姿のおかみさんたちがせわしなく動いてる。それなのに一人だけ脇でみんなに背を向けてる奴がいる。男衆の一人が眉間にしわ寄せて怒鳴るんだ。『おい、源さんよ』、ま、源さんじゃなくてもいいんだ。熊さんでも八つぁんでもいいんだけど、『源さんよ、おめえ、そこで何やってんだ、こら、さっきっから見てりゃあ、そこで突っ立ってるだけでよ、てめえ何もしねえじゃねえか。こんだぁなんだ、皆さんにケツ向けて立ち小便か。てめえ何さらしてんだ』、なんていうような風景が出てきちゃうんだな、モチベーションってのは」

 こんなときにこんな話をすることはないのにと思うそばから、おれはまたあらぬことを口走っていた。

「アスリートってのもある。アスファルトとコンクリートを混ぜて作った道路。きれいだけどちょっと細い道」

 杏子は笑っていた。

「やっぱり変な人ね、おじいちゃんが気に入るわけだ」

 くだらないことを喋ってしまったが、寅治郎よりも杏子の本心が見たい。

 乾いた音が9ラウンドの開始を告げた。

 どんな指示があったのか、モンソンが出てきた。ハッパをかけられたのだろう、表情は見えないが傾いてゆく流れを引き戻さんと左右を振ってきた。ライフルの異名をとる得意の右ストレートがガードしたハグラーのグラブに幾度となく当る。そのたびにハグラーは歩を止める。当ったパンチではないが見栄えが悪い。2分過ぎ、リング中央で打撃戦になった。両者フックの打ち合いから右ショートを顔面に持っていったが、ハグラーが一瞬速く打ち抜いた。モンソン両手を着いたが瞬時に立ち上がる。すかさずレフェリーが割って入って、今度は正真正銘のダウンを取った。カウント9でファイティング・ポーズをとったが、入ってきたハグラーをすぐにクリンチ。そのあとモンソンはさがるいっぽうになるがまだ足には来ていない。ただし、後退しながら放つパンチはいずれも流れて威力がない。コーナーにつまってモンソンがクリンチしたところで、ラウンド終了のゴングが鳴った。

 ハグラーの勝ちが見えてきたと思った。

「アイデンティティってさ」

 ざわつく場内をよそにして、唐突におれは言った。

 杏子がおれを見たので、おれもリングから杏子へ視線を移した。

「今なら携帯電話だな。日記でもいいや」

「ずいぶんあっさりしてるわね」

「ねっとりするよりいいだろ」

「すっきり、さっぱりがいいわ」

 おれはまたリングを見た。水着のラウンド・ガールが『10』の看板を掲げて誇らしげに歩いている。

「母のことじゃないかな」

「え」

「小むずかしいことは分らないけどさ」

 杏子に向き直っておれは繰り返した。

「母親のことなんじゃないの」

「アイデンティティはマザーってこと?」

「マザーかどうか知らんけど、おふくろとかかあちゃんとか、そういうことになるんじゃないの。はずしてるかな」

 杏子は応えなかった。おれを見て、それから目を伏せて、そのあとにリングを見た。急に抱き寄せたい衝動に駆られた。叶わぬならその手を取って握り締めたかった。言わずもがなのことを言ってしまったようで、杏子ではない、おれがひとりぼっちになってしまったように感じたからだ。親不孝なら誰にも負けない者が柄にもなく調子にのって偉そうなことを口にして、つんのめりそうになっている。

 ゴングと同時にハグラーが出た。前へ前へ、モンソンとの距離を詰める。明らかに決めに行っている。左ストレートから右フック、距離と位置に応じて右はストレート、フック、アッパーを使いわける。モンソンも左右フックで応戦。場内は騒然となる。クリンチのあと、いったん両者が離れてすぐにまたハグラーが左フックを振ったときだった。モンソンの打ちおろしの右が、この試合はじめてだろう、まともにハグラーの顔面を襲った。さすがのハグラーもこの一撃に動きが止まった。追撃の左ストレートは流れて空を切ったが観衆は総立ちだった。ちょうどハグラーがこちら向きだったので、パンチを浴びた様子が見えた。笑っているようだった。そんなパンチじゃこたえないぜ。モンソンに向かってアピールしたつもりだろうが、パンチをまともに食らってしまったことを教えているようなものではないか。終盤は接近戦で細かいパンチを当てたハグラーだが、このラウンドの採点はどちらへいったのか分らない。

 とにかく会場の興奮がすごい。

 人間が時に応じて抱く、ありとあらゆる思い、幾千幾万の感情のすべてがこの古代競技場に集約されたような錯覚に襲われて、おれはいつしか視点が定まらず、ただ体いっぱいでリングを、いや、リングだけじゃない、会場全部に身を委ねたような気分になっていた。

「来てよかったわ」

 スタンディング・オベーションに混じって、杏子の声が聞こえた。来てよかったと、たしかにそう言った。

 すばらしい戦いを観ることが出来てよかったのか、それとも、おれと会ってよかったのか、聞こえぬふりで、そして聞き返すことは憚れたけれど、おれは杏子のひとことで、この試合、このラウンドが生涯忘れ得ぬものになったと、ひとり感情を高ぶらせていた。考えれば、ざまぁない。日ごろボクシングを冷静に見ているつもりが、連れ立った女のひとことで最高の試合、最高のラウンドだと合点してしまうんだから。

 興奮さめやらぬまま、11ラウンドが始まった。どうしたわけか前の回のような積極性がハグラーにない。同じように前に出てパンチを出しているが、踏み込みが甘い。ダメージが残っているのか、モンソンのタフネスに手を焼いたのか、作戦なのか、様子見の気配がある。そのぶんモンソンの距離になる。モンソンは疲労の色は隠せないが、なぜかひたむきな感じを受けた。左右のパンチは流れて、スピードもパワーも落ちてはいるが、逃げの姿勢は見えない。続く12ラウンドも同じような展開だった。

終 章



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