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◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
通路からスタンドへ出たとき、そこに広がる光景に目を奪われたからだ。5万人の収容を3万5千に制限したというが、目に飛び込んできたのは圧倒的な観客数だった。おかしな言い方だが、古代建造物に貼りつくようにしてうごめいている見物一人一人が血の通った生身の人間だった。当り前のことだが、当り前のことを思わずにはいられないほど気持が高ぶった。
日は中天にあり、人々の発する声と思いとが渾然となって、星条旗を揺らし、アルゼンチン国旗を打ち振らせているように見えた。
大勢の警察官が場内を行きつ戻りつしていたが物々しさは感じなかった。杏子に声を掛けた警察官はチケットを見て、にこやかな表情で上の階を指差した。
3階の立見席から見下ろすリングは思っていたほど小さくはなかった。これなら動きがわかる。
「すごいなあ。おじいちゃんがこれ見たら喜ぶだろな」
「ほう、とか、おお、とか、感嘆の声をもらすんじゃないのかな」
「そうね。あ、でも、あれで結構ひねくれてるとこあるからね。嬉しいくせにつまらなそうな顔するのよね」
おれのことを言われてる気がして、リングに目を向けた。
セレモニーだろう、背広姿の男たちがリングに上がってくる。歴代のミドル級チャンピオンらしいが馴染みの顔がない。中に一人、ひときわの歓呼に迎えられたのは、アナウンスからニノ・ベンベヌチだと分った。手を振って応える姿がスクリーンに大写しになった。写真でしか知らないが、なるほど今でもダンディなんだなあと思う。
「ずっと前にね、変な人が来たのよ」
おれと同じくリングに顔を向けたまま、杏子が言った。その横顔を覗いたがすぐに視線を戻した。
「女の人なんだけど、なんか変な感じなの」
「変な感じって、どんなふうに」
「外人でね、昔の友達っておじいちゃん言ってたけど、きれいだし、服装のセンスもとても良かった、コロンはちょっときつかったかな」
「ガール・フレンドじゃないのかい」
軽い調子で応えながら、目を合わせてくれるものだと思って杏子を見たが、前を向いたままだった。
「変だったなあ。会釈はしてくれるんだけど、あたしの前ではほとんど口を利かないの。2人で部屋にこもって、ときどき変な笑い声は聞こえたけど、でも恋人って感じじゃないのよね。女なんだけど男友達みたいな、変な感じがして、なによりもいくつくらいの人なのか、さっぱり見当がつかなかった。だから今でも覚えてるの」
「ずっと前って、どのくらい前の話?」
「8年くらい前、日本に来てすぐのころ」
「ていうと、高校生になったばかりのころか」
「学校から帰ったら玄関に女物の靴があった。ママかと思った」
杏子がおれのほうを見て、弱い笑いを笑うのが分った。
モンマルトルのパリジェンヌ、ジャンに違いない。ジャンが日本へ来たことは寅治郎から聞いていなかった。
ひとさまの私生活に首を突っ込む気持はないが、知り合って1年、寅治郎たちの暮しの一端がほの見えてきていた。
寅治郎は渡仏して5年後、彼の地で日本人旅行者の女性と恋に落ちて結婚、一男をもうけた。パリで店を継いでいるのがこの息子夫婦、すなわち杏子の両親だ。
折り合いが悪かったらしい。寅治郎夫婦と息子夫婦か、4人のうちの誰かと誰かか、そんなことは知らない。寅治郎58歳のとき、奥さん病死。失意の中で寅治郎は40年ぶりに鎌倉の生家へ帰った。資産家だったから金には困らなかった。遅ればせながら親孝行の真似事をしてみようと思うまもなく、年老いた両親が相次いで他界。兄弟のない寅治郎はひとりで広い家に棲むことになった。しばらくして、“おじいちゃんに習って家を飛び出したの、パリなんて大嫌い”驚く寅治郎にそう言って杏子がやってきた。祖父が心配だったんだろう。
場内がざわめいた。
赤コーナーへ通じる花道にハグラー陣営が姿をあらわした。先頭に立つ者が両手で金色のチャンピオンベルトを掲げている。そのあとをペトロネリ兄弟だろうか、ハグラーを育てあげたトレーナーたちに囲まれて、マービン・ハグラーが歩を進めている。例によって濃紺のフード付きガウンで己が身をおおっているが、上から見ていると肉体が確かなリズムを刻んでいるのがよくわかった。
「マービン、マービン」
数人隔てたあたりから突如声があがった。黒人男性が拳を突き上げて叫んでいる。呼応するかのようにあちこちで手が挙がり、すぐに連呼の大合唱に変った。
おれたちはハグラーと言うけれど、彼らはマービンと呼ぶ。その響きは、愛らしい黒人の坊やを連想する。
「マービン、マービン」
おれも呼んでみたいが、ゲットーを知らぬ者にその資格はなさそうだ。
マービン、マービン、マーベラス・マービン、ラヴリィ・マービン・・・
リング・インしてなお、そのリズムを刻み続けるハグラーを追いながら、おれは心に口ずさんだ。
まもなくハグラーのそれを凌ぐ歓声が起こった。
1階貴賓席も2階一般席も、ドミノ倒しを俯瞰するように色彩が変じた。総立ちになって白人チャンピオンを迎えている。喝采の中を進む一団には、すでに勝敗は決したかのように、時折、紙吹雪が舞い、歓呼に手をあげて応えるカルロス・モンソンは自信満々の様子で、凱旋将軍のようだ。銀色のガウンにはスパンコールがあしらわれ、アルゼンチンとイタリア両国の国旗の縫い取りもあった。
「す○い人気、お○○ちゃ○○○○○ら○○て○ぶ○」
隣の杏子の声が通らない。どこの国か知らないが、白人のおばさんが大声をあげている。モンソンモンソンと叫んでいるようだが、おれにはそれが妄想妄想と聞こえる。杏子と顔を合わせて、笑った。
リングに上がったモンソンはステップを踏みながら四方に右手を上げて、あらためて声援に応えた。その凛々しい顔だちがスクリーンに映る。拍手歓声は国歌独唱の段まで鳴り止まなかった。
アルゼンチン国歌をおれの知らない歌手が朗々と歌いあげ、続いて星条旗よ永遠にを黒人歌手が、誰だろう、マービン・ゲイかな、いや、彼はとうに死んでるしなあ、そうだよ彼もマービンだなあ、などと思いながら、静寂の人いきれの中、これも見事に歌う。古代ローマ人は音響効果も知り尽くしていたのか。
「面白いね」
ぽつりと杏子が言う。何が面白いのか分らなかったが、おれはあいまいに笑った。
「ここにこうしているなんて、面白いね」
何が面白いのか、おれにはまだ分らない。いたずらな笑顔を見せて杏子は言った。
「変な奴だって、おじいちゃん、そ言ってたわ」
「おれのこと?」
「家にやってくる人ぜんぶ。あなたも私も」
「かもしれないね」
「みんな変な奴なんだって。言ってる本人がいちばん変だと思うけど」
「それは言えてる」
「口では達者なことばかり言うくせに、稲村ケ崎や七里ケ浜をひとりで歩いて昔を懐かしんでるのよ、きっと。黙って行っちゃうから気が気じゃないのよね。年寄りが江の島眺めたって、サザンじゃないんだから、サマにならないって言ってるんだけどね。そしたら、サザンって何だ、南十字星かって、わけわかんないこと言って話が終っちゃうの」
何だろうね、あなたんとこの爺さんは。あなた同様、おれには手に負えないよ。だけどさ、おれにとっちゃ、江の島はもう江の島じゃないんだ。江の島は、あれは今でも、ずっと、不時着したUFOさ。
ジャッジとレフェリーが紹介される。レフェリーはどう見てもリチャード・スティールなのだがコールされた名前は聞いたことのない人物だった。そのアナウンスをする者もマイケル・バッファに違いないのだが、これもどうやら別人のようで、しかし、「さあ、これからショーが始まるぞ」と吠えたので、やはりバッファではないのかと思う。
初めに紹介されたのはモンソンだった。腰にはベルトが巻かれており、耳をつんざく歓声の中、胸の前で軽く十字を切ってから、その右拳を高々と差し上げた。
一方のハグラーは両腕をあげて、全身がYの字の形になったまま進み出た。こちらにはブーイングが混じっていた。
レフェリーが2人を呼び寄せる。注意を聞きながらの、リング中央での睨み合い。スクリーンに両者の顔が大写しになる。身長で劣るハグラーは顎をあげてモンソンを見据える。対するモンソンも厳しい表情でハグラーを睨み付けた。別れ際、モンソンが何か言った。応じてハグラーも何か言った。レフェリーのグッド・ラックという声だけが聞こえた。背を向けてコーナーへ戻るモンソン、ハグラーは向きを変えず、前を見たままコーナーへさがった。両者へさざなみのような拍手が起こり、すぐに止んだ。
中央にレフェリー、コーナーにボクサーがおのおののリズムを刻みながら佇む。掃除をしたわけではないのに、さあーっとリングがきれいになる。いつもながらこの一瞬がたまらない。
乾いたゴングの音は天空へ消えた。