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◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
小春日和の一日、三上老人宅で将棋を指していた。
このころ、おれはもう老人に負ける気がしなかった。『角』ひとつ落としてもらってもよかったが、向うから言い出さない限り、こちらからは何も言えない。一局終ればすぐに並び替えて、手番をかえて指していた。
どのくらい指したか、おれの方に油断があったんだろう、手順を間違えて、『歩』を突く前に『桂馬』を跳ねた。しまった、そう思ったとき、寅治郎は駒台の『銀』に手をかけていた。
「やはりハグラーですかな」
落着き払った様子で、そう言いながら『桂馬』の頭に『銀』を打った。この日はじめてだろう、寅治郎有利の局面になった。
「失敗したなあ」
おれは焦りを隠して鷹揚に言った。
寅治郎は応えず、手を待つ間、かさねて言った。
「ハグラーがやはり勝ちますかな」
3日前にモンソン・ハグラー戦の公式発表があったとはいえ、寅治郎だって知らず知らず勝ちが見えた焦りがあったに違いない。だからこそ唐突にハグラーの名を出して攪乱を狙ったんだろう。
「ハグラーに死角はないと思うんですけど」
おれは気のない素振りで盤面を一瞥してから、例の飾り棚に目をやった。かなりのテープを見せてもらった。
ジャック・デンプシー、ジョー・ルイス、ロッキー・マルシアノといった名選手たちの若いころのファイトが新鮮だった。なかでもやはり躍動感あふれるシュガー・レイ・ロビンソンは別格だった。ロビンソンその人がボクシングだった。唯一引っかかっているのがあの一本を見ていないことだったが、補って余りあるフィルムを見せてもらったことは確かだ。
最善手をさぐっていたが分らない。やむなくおれは黙っていればただで取られる『桂馬』を相手の『玉』の前に成り棄てた。成算があったわけではないが、勝負を棄てたわけでもない。みすみす『桂馬』を取られることが悔しかったのだ。
寅治郎はこちらの意図をはかりかねたのか、小首をかしげたが、さして間をおかずに『玉』の横にずっと寄り添っていた『金』でこれを払った。あとから考えればこれは間違いだった。『銀』がさがって取らなければならなかったのだ。それから十数手すすんだ局面で、封じられていた『角』の道が通った。『金』が斜めに動いてくれたおかげだ。最後は一手一手の勝負になったが、おれの負けはないと感じていた。
「会うたびに強くなりますなあ。特に今日はまるで歯が立ちません。失敗しましたな」
「失敗したというのは、さっきのあの『金』ですか」
「いやいや、手のことじゃありません。今日はアンもおりませんし、何もできません。あなたの気持がゆったりしてしまって、手がよく伸びる。太刀打ちできません。次回からはあなたが恐縮するようなもてなしを考えないと勝負になりませんな」
寅治郎は穏やかに笑った。
杏子の不在は残念だったが、そのぶん将棋に集中できたような気もする。
「今日はこれくらいにしておきましょう。何遍やっても同じです。少し勉強しないといけませんな」
そう言って駒袋に駒をしまいながら、寅治郎はさきほどのせりふを繰り返した。
「やはりハグラーの勝ちですかな」
「そう思いますけど、でもまあ勝負事ですから、やってみなければ分りません」
「ハグラーには気になることがあるんですがね」
「なんでしょうか」
「バランスがおかしいといいますか、ちょっと腑に落ちないことが」
おれは聞きとがめた。
「バランス、ですか。ハグラーはバランス悪いですか」
「いえ、ボクシングじゃないんですよ」
「ボクシングじゃない?」
「ええ、ボクシングはほぼ完璧です。パンチはあるし好戦的で理詰めのボクシングをします。あれだけ見事にスウィッチ出来るボクサーを私は知りませんし、ハーンズ戦で見せたようなイチかバチか、崖っぷちに身をおく強さもある。総じてボクシングはしなやかです。あなたが言われるように死角はないように見えます。ただ、あの頭といいますか顔といいますか、首を境にして、上と下のバランスが合っていないんです」
何を言わんとしているのか初めは分らなかったが、年齢のことを言いたいのだと察しがついた。
「略歴をみればハグラーは今年32歳です。モンソンは35です。いま三上さんが言われたようにハグラーには前から年をごまかしているという噂はあります。2つか3つサバを読んでいるかもしれません。あのスキンヘッドも年齢への目くらましかもしれません」
「実際のところは7つ8つ上ではないでしょうか」
「7つ8つ? そんなにですか。だとしたらモンソンより年上の、今年、40ですか」
「それに近い年なんじゃないでしょうか」
「まさか」
「いえ、分りませんよ。あてずっぽうで言うんですがね、前にも話しましたが、向こうへ渡って、ひょんなことでオカマと知り合いましたでしょう。ああいう世界の連中は年をとることをとても恐れています。いくつになっても若くきれいでありたいと、まあ彼らだけではありませんが、ふつう一般の方よりも強く願っているはずなんです。若さ美しさを保つためなら彼らは労を惜しみません。耳寄りな情報があればどこへでも飛んでいきますし、大枚もはたきます。まるで効能のない山奥の雑草でも、それが美容にいいと誰かが言えばたちまち噂が広がって、われもわれもと手を出します。もちろん化粧品や服飾品には目がありません。そんな彼らでもやはり我々と同じように年はとってしまいます。隠そうとするほどにかえって年がばれてしまうことがあります。そういう連中と長く接したせいか、顔で年を読む癖がついてしまいました」
「三上さんが見るところ、ハグラーはだいぶ年がいっているということですか」
「そうですな」
「仮にそうだとしても、摂生に努め精進を続けていれば体力の衰えはカバーできるんじゃないでしょうか。現にその試合ぶりは素晴らしいと思いますが」
「仰るとおりです。この間のムガビ戦も重厚な趣きのいい試合でした。ムガビ自身、最強のときにハグラーにぶつかったと思いますし、そのムガビをハグラーはきっちり順序立てて解体していきました」
「それなら年齢の問題はないんじゃないですか」
「表向きはそうなんですが、世界の注目が集まる大試合において、体力技術よりもむしろ精神にぶれが出るんじゃないか、それは突き詰めれば年齢からくるものであって、そこから精神のきしみを生じてくるんじゃないかと、これは当人しか、あるいは当人すら感得できないマイナス作用が働くんではないかと、ここのところちょいちょい思うんです」
寅治郎の言うことは分らないでもなかったが、詭弁だと思った。寅治郎はモンソンに勝ってほしいのだ。生涯の友が愛したニノ・ベンベヌチ、そのボクサーをやぶってベルトを巻いたモンソンに寅次郎は友の面影を追っているのだ。モンソンが勝つことによって友も自分も肯定されたいと願っているのだ。それは自然の情であって、否定されるものではないけれども、それならおれだってハグラーに勝ってほしいと願う。モンソンよりもハグラーに自分をかさねることができるからだ。
モンソンもハグラーもチャンピオンになるまでは時間がかかった。強すぎてチャンスが訪れなかった。プロになって8年、ハグラーは50戦を越えて、モンソンにあっては80戦以上を数えての戴冠だった。その道のりはどちらも平坦ではなかったが、ベルトを巻いてからは人気の面でハグラーはモンソンに遠く及ばなかった。
カルロス・モンソンには華がある。そこにいるだけで人が寄ってくる。甘いマスクと多らかな気性は、汗の臭いを感じさせない天才肌のボクサーとして常に脚光を浴びてきた。サービス精神も旺盛で、映画にも出演し、女優とも浮名を流す。行く先々には女性があらわれ、それがいやみにならなかった。本業のボクシングは、先ごろのバルデス戦では膝をつくダウンを喫したが、盛り返して判定勝ち、底力を見せた。目下73連勝。
一方のハグラーは戦歴こそモンソンに劣らないが実力同等の評価を得ているとは言いがたい。いまだにデビュー戦のギャラが50ドルだったと書かれ、そのボクシングはマーベラスと形容されるものの、生い立ちから言動、ファイトマネーの多寡まで、ハグラーの紹介記事はどこか揶揄を伴った表現が目につく。初挑戦は無念の引き分け、翌年、英国に渡っての再挑戦で王座奪取を成し遂げたものの、観客の怒号の中、リングには物が投げ込まれ、喜びにひたることもベルトを巻くことも出来ず、そうそうにリングを降りねばならなかった。同国のヒーローを打ち破っただけで、ハグラーがいったい何をしたというのだ。
寅治郎は続けて言った。
「もうひとつあるんですが」
おれは不機嫌になっていたかもしれない。
「まだありますか」
鼻先で応える口吻だったと思う。
「地の利です」
「地の利?」
「そうです。試合はローマですが、ローマはモンソンにとって生涯忘れ得ぬ場所のはずです。モンソンはこれまで14度の防衛のうち実に10度もヨーロッパで防衛戦を行ってきました。モンテカルロ、パリ、コペンハーゲンと、モンソンにとってヨーロッパはゲンのいい場所です。彼の地の人はハグラーは知らなくてもモンソンを知る人は多い。観衆の大半はモンソンの応援にまわるんではないでしょうか。おそらく専門家筋ではハグラー有利の予想が出されると思います。それを受けて現地ではさらなる応援が湧き上がるでしょう」
それがどうしたと言うのだ。だから何だと言うのだ。おれはつい力んだ物言いをしてしまった。
「モンソンへの応援が大きければ、それだけハグラーの闘争心に火がつくと思います。4回戦ボーイじゃあるまいし、会場の雰囲気に呑まれるようなハグラーではないでしょう。ハグラーは誰とでも何処ででも戦うボクサーです。請われれば、たとえさんざんな扱いをうけたロンドンでも試合をするでしょう。今度の試合での契約交渉でモンソン陣営が主張した一番のことは、いま三上さんが言われたローマ開催ですが、タイトル獲得の地で有終の美を飾りたいというモンソンサイドの思わくはあまりに感傷的で少女趣味で、ボクシングをなめているんじゃないかと思います」
「感傷ではなくて、感謝ではないかと、私は勝手に思い込んでいるんですが」
「感謝?」
「分りませんがね。モンソンは国はアルゼンチンなのに、肌の色や風貌が似通うところがあるんでしょうか、なぜかヨーロッパがお気に入りです。母国では満足のいく世界戦ができないという事情はあったにせよ、ヨーロッパ各国で好意をもって迎えられてきたことへの感謝が常にあったんではないでしょうか。アップライトに構えるオーソドックススタイルのモンソンのボクシングはヨーロッパでは好かれるんですよ。ハグラーのボクシングはヨーロッパ人には残忍に映って敬遠されるんじゃないですかね」
そういった発言こそ老人の感傷ではないかとおれは決めつけようとしたが、勝負の行方へ一抹の不安がよぎったことも事実だった。
「残念なことですが、これは我々日本人にはピンと来ないことなんですが、欧米では人種差別という問題が根強くあります。極論ですが、善悪以前に肌の色の白黒が大きく横たわっています。自由を謳うアメリカでさえ、表面なにもなさそうですが、腹の中は白人黒人の明確な境界があって、優劣の誇示や識別があり、肌の色がちがう者への侮蔑や怨恨が渦巻いていると、ま、これも私の勝手な推測なんですが、そういった観点からもハグラーよりもモンソンを贔屓にする人が多いだろうと思います」
だからどうなんだ。運動会じゃあるまいに、応援合戦が勝負を決めると言うのか。
ハグラーが、もしも敗れるとしたら、寅治郎が遠回しに言っている、戦力以外の要因が双方にプラスとマイナスに作用して、ハグラーのボクシングの歯車が空転するときだろう。しかしあのボクシングに狂いが生じるとは考えられない。
開催地にこだわったモンソン陣営に対して、ハグラーは15ラウンドで戦うことを強く主張した。
両陣営の言い分はすんなり通り、明年6月27日、世界ミドル級統一戦がローマ・コロッセオ特設リングで行われることになった。