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■妄想家・夏野澤夫の架空小説 〜ばかばかしいけど、真剣!〜■

架空、空想、幻想、なぜか恋愛話まで…
世界ミドル級タイトルマッチ
[カルロス・モンソン vs マービン・ハグラー]

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 

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ローマにて(2) 〜逢 瀬〜

 だからというわけじゃないが、背中をつつかれてすぐにわかった。そんなことをするのは杏子しかいない。指の感触も間違いない。

 振り返る。

 当人がその髪をばっさり切って澄ましこんでいる。

 おれの驚く様子を見て楽しむにちがいないと気を回して、おれは杏子の拍子抜けを狙って、わざと落ち着き払った。

 髪なんか長くたって短くたってどうでもいい。会えたこと、それがほんとは嬉しくてたまらないくせに、正直にモノが言えない。

「髪切ったのか」

「パリでね」

「どこの国のお姫様かと思った。ショートカットも女優さんみたいで結構けだらけ猫灰だらけ」

「素直じゃないなあ」

 おれの気持を見透かしているのか、杏子は上目遣いに睨んだ。

「可愛くないぞ」

 そう言って人指しゆびでおれの脇腹を突っついた。

 うぎゃ。

 ふいを突かれて思わず体を『く』の字にして声をあげてしまった。

 ジーンズに白のTシャツの軽装で現れた杏子に言いたいことはいくらでもある。訊きたいこともいっぱいある。なのに今はこうして連れ立っているだけで満ち足りた気分だった。愉しすぎて薄気味悪いくらいだった。

 どちらからともなく足は試合会場のコロッセオに向いていた。

 ヴェネツィア広場から道を左へとると、その威容が目に飛び込んできた。

 ローマ象徴のひとつであるこの古代競技場が会場に決まるまでには当然ながら紆余曲折があった。コロッセオ保存継承の会なる市民団体の猛反発があり、続いてヴァチカン市国におわします法王の怒りが伝えられた。

 コロッセオは世界屈指の観光名所であるが、それ以前に人類共通の文化遺産である。現在も修復保存工事が続けられている。その貴重な文化遺産を一部の浅薄な民のお祭り騒ぎに使用するとは許し難い。人間の尊厳を踏みにじる行為である、と仰せられたかどうか定かではないが、地元スポーツ紙は連日、法王の体温、脈拍数、血圧値、呼吸数を似顔絵入りで報じた。

 しばらくして法王の公式声明なるものがマスコミ各社にFAXで届いた。

 これは平和の祭典である。我々はかけがえのない時間を共有するだろう。なぜなら、人類がいかに崇高なる存在であるかを認識する、至福の機会に恵まれたからである。

 脈絡に欠けるが、一転、好意のコメントだった。

 でもなあ、マユツバな感じがした。一説によると公共の場を使って、しかも目と鼻のさきでボクシング興行がうたれることに立場上、法王は難色を示されたが、イタリア大統領が説得したとか頭を下げたとか。莫大な外貨が落ちてきますぞと耳もとで囁いたとか、まことしやかな噂が流れたこともあった。

 でもなあ、これも怪しい。すべては宣伝効果を高めるためにプロモーターが仕組んだことじゃないのか。

 ともかく前代未聞、競技場であったとはいえ、古代遺跡がそっくり会場になった。競技の場である一階の床は抜け落ちたままだったから、プロモーターはアメリカ航空宇宙局NASAへ発注して、最新ロケットと同質の、軽くて強い特殊合金の床を張り、木目調の色彩を施し、その上に特設リングをのせた。

 遺跡の破損や治安の問題等をかんがみて、さすがに夜間の使用は控えざるを得なかったらしい。照明設備は排除されたが、最上階には、ぐるりを囲んで10基の巨大スクリーンを配した。このスクリーンはアメリカ政府からの無償提供と聞いたが、試合が行われる時間はアメリカでは早朝のはずだ。クローズド・サーキットとはいえ、30ドルを支払ってそんな時間帯にどれだけの人が観るというのだろう。まあいいや。

 コロッセオで試合が行われると知ったとき、まず浮かんだのはハグラーに似つかわしいと思ったことだ。あの鍛え上げられた鋼の肉体は石造りの古戦場に相応しい。一戦交えんと屈強な古代戦士が現れても、ハグラーなら遜色がない。それどころか対峙した瞬間、ヘラクレスたちは格の違いに驚くのではないか。

 近づくにつれ、ざわめきが増してくる。思わず歩を早めたが、杏子が右手に広がる遺跡群へいざなう。早くコロッセオへ行っておきたかったが、肝心なことを言っていないことに気づいて、従った。

 ここも人にあふれていたが、数々の遺跡を眺めてもそこからは何も感じるものはない。だいいち、この街に点在する建物はどれも威風堂々としていて、おれには馴染めない。

 チケットが2枚あることを言って、杏子が喜んでくれることばかりを考えていたが、向こうからやって来る若い男の視線がふと気になった。

 デッキシューズにジーンズ、デニムのシャツをラフに着こなして、どこかで見た顔のようだと思っていると、男はニカッと白い歯並を見せて、杏子に「チャオ」と声を掛けた。今をときめくウェルター級チャンプ、オスカ・メス・ドーヤに似ていると分った。杏子はすぐさま「チャオ」と返した。すれ違いざま、男はおれにだけ分るようにおれを見下す眼差しをした、というのは僻みか思い過ごしか。

 穏やかでなくなったおれはそれでも平静をよそおって杏子に訊いた。

「知りあい?」

「ううん」

 こころもち首を振ったようだが、意に介していない様子ですたすた行く。

 なんだ、尻軽女じゃないか。

 襟足のあたりをぼんやり追いながら、落胆と腹立たしさにどう振舞えばいいか分らず、言い出そうとしたことを束の間忘れてしまった。

 教会が見えてきて、中へ入ろうとまた杏子が誘う。

 マンホールの蓋に刻まれた、なんとかいう神の、怖そうだがおれにはどこか間が抜けて見える顔が、うそつきは噛まれるという真実の口だった。

 映画『ローマの休日』で一躍有名になったそれは人気スポットのひとつなんだろう、人がわんさかいる。その口に手を差し入れた新聞記者が思わず悲鳴をあげる。あわてふためくヒロインはこれも悲鳴をあげて咄嗟に背後から男に抱きついて助けようとする。安っぽい御伽噺にあって、ヒロインの挙動に唯一胸がざわついたシーンだ。現実にはいくらでもありえそうな場面だが、卑屈と羨望が交錯して、おれには訪れることのない場面、そう思ったせいだろう。

 映画の真似をしたって仕様がない。

 おれは不機嫌を押し殺して、その穴に右手を差し込んで杏子を見た。

「どう? 噛まれたでしょ。痛くない? 痛いでしょ、悪いことばっかりしてるから」

 いたずらっぽく笑う杏子の、心が見えない。

「ちょっと噛まれたかもしれない」

 手を抜いて、おれは手形をとるときの恰好で、右掌を杏子の鼻先に突き出した。

 ばかやろうと言いたかったのかもしれない。誰に対して? 自分にか、杏子にか。

 どれどれ。

 杏子は覗き込んだ。指の隙間からおれは女の心を探った。マジな顔つきだったんだろう。指と指との間で目が合って、杏子は一瞬驚いた様子に見えた。それを見ておれもあわてて我に返った。

 尻軽女と思ったことなど忘れて、おれはポケットからどうやってチケットをとりだそうか、そのことばかりを考えていた。

 なにかキッカケがほしい。

 つかつかと警備員がやってきて、高飛車にこれより先はチケットのない者は通れない、チケットを見せろ、ないのか、ないんだろ、そうか、ないんだな、それなら邪魔だ邪魔だ、お前らが来るところじゃない、とっとと失せろ。そんなことになってはくれないだろうか。ダフ屋でもいい。法外な値のチケットをちらつかせて、お嬢さん、いかがです、世紀の一戦ですぞ、縁あって当地を訪れた幸運なお嬢さん、どうです、これを見逃す手はありませんぜ。お連れの方もお連れの方だ、こんな可愛い娘さんに試合を見せないなんざ、男が下がりますぜ。凄みをきかせて言い寄ってはくれまいか。

 そうなればしめたものだ。気弱なふうを装って、わざとポケットをまさぐり、しわくちゃにしたチケットを取りだす。こんなものがあるんですけどこれで入場できませんか。言葉につまる彼らを尻目に、打って変わった強気な態度で、さ、行こう、杏子を促し、ずんずん進めるんだが。

第6章



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