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■妄想家・夏野澤夫の架空小説 〜ばかばかしいけど、真剣!〜■

架空、空想、幻想、なぜか恋愛話まで…
世界ミドル級タイトルマッチ
[カルロス・モンソン vs マービン・ハグラー]

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 

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【第4章】
追 憶(3) 〜恋におちて〜

 寅治郎の話を聞いてしまっては飾り棚のテープに手を出すのが気が引けたが、おれは背筋を伸ばして、意味もなく掌で腿をさすりながら言った。次の機会があるかどうかわからないと思ったからだ。

「それじゃ、お言葉に甘えて、あの、手前に見える『原田・青木』というのは、あれはファイティング原田と青木勝利の試合ですか」

「ン? おお、そうですそうです」

「あれ、いいですか」

 寅治郎は穏やかな笑いを笑った。

「わたしのほかにはもう見る人はいないと思っていました」

 言いながら立ち上がってテープを取り出した。

 慣れた手つきでビデオデッキのスイッチが入れられると白黒の画面がうかびあがって、昭和39年10月の日本が現れた。

 試合は一方的だった。原田のあくなきラッシュに青木は防戦におわれて勝負にならず、3ラウンド、右フックでキャンバスに沈んだ。このあと原田にはさらなる栄光が、青木には凋落がやってくるが、残念ながら光は見えても影をおれは知らない。

 パナマにロベルト・デュランというボクサーがいた。『石の拳』という異名で一世を風靡したが、メガトン・パンチの天才ボクサーは充分な拳を持ちながら『石の拳』になることはできなかった。肩を落としてリングを降りる敗者を見ながら、物思いにふけっていたわけではないが、「おじいちゃん」という声でどきりとした。

 神妙な面持ちで杏子がケーキを二皿運んできた。

「や、来た来た」

 寅治郎は品定めをするのか、皿にのったケーキから目をはなさなかった。

 杏子はテレビ画面を盗み見てから静かにケーキを置いた。茶色のかたまりから甘い香りが漂う。

 おれはありがとうございましたと礼を言ってビデオの中断を促した。寅治郎はまた見ましょうと言ってリモコンに手を伸ばした。それから自分の皿を持ち上げて、その一見ぶっきらぼうなケーキをとみこうみしながら話しはじめた。

「サヴァランです。どこにでもありますが、これがなかなか一筋縄ではいかん代物でして。生地を焼いてシロップをしみ込ませるだけの簡単なものなんですが、加減がむずかしい菓子でして、生地の醗酵具合、シロップの調合、そのシロップのしみ込み加減、食べるまでの時間、いろんな条件がぴたり一致しないと満足のいくものは出来ません。料理は愛情だ思いやりだと浮ついたことをプロが口走る時世ですが、こんなちっぽけな菓子ひとつでも、料理は時候と天気なんです。それをまず肌で感じるところから始まります…」 寅治郎は続ける。「それから、その日その時、使う素材や道具、調理場、あらゆるものの温度湿度を見極めていなければなりません。愛情なんてあとから勝手についてきます。そういった十分な配慮をしても、このサヴァランという菓子はなかなか言うことをきいてくれません。レシピはあってもそのレシピをあざわらうがごとくで、60点70点のものはすぐに作れますが、100点のものはまずお目にかかれないという難物です。細工するところがないんで、お店にあるのはクリームがのっていたりしますが、本来ごまかしがきかないものです」

「うるさいなあ」

「お前のために伏線を張っているのがわからんか」

 杏子はあらぬかたを向いて膨れっ面をしたが、すぐにおれを見て笑った。あわてておれも笑ったつもりだが、どんな顔をしていたことやら。

「毒味してもらうから、ちょっとそこへ坐れ」

「失礼ね」

 言いながらいきなり杏子がおれの隣へきた。

 そんな資格はハナからないが、忘れていた匂いがいきなり戻ってきたようで内心うろたえた。

「甘いものは大丈夫ですか、そうですか、そりゃよかった。さ、召し上がってみてください。アン、いや、孫が一所懸命作りました」

 一所懸命作ったとは不思議な物言いだと思いながら、おれも神妙な顔つきで、いただきますと言ってフォークを手にした。

 甘いというしかない。ケーキなんぞ日頃口にしないばかりか、食い物に頓着しないおれに味がわかるわけがない。

「どう?」

 たずねる様子が馴れ馴れしいが、嬉しい。

「いや、実は今まで食べたことないもんで。でも、うまいです」

 へたくそな愛想に杏子はあきらめたような笑いを浮かべた。

「ケーキ屋にあるのは知っていたんですけど、これがサヴァランという名前だったこと、これも実はいま知りました」

「なんだか知らないけど、サヴァランは別名モンマルトルのパリジェンヌって言うんだって」

 喉がつまってむせるところだった。

 寅治郎はそ知らぬ顔でこれまた神妙な様子で味見をしていた。

「どう? おじいちゃん」

「そうだな、初めてにしてはまあまあだが」

「初めてじゃないわ、これで三回目」

「ばか。ひとの気遣いを無にしおって」

「あ、そっか」

「そういうところがまだまだなんじゃ」

「でもおじいちゃん、あたしだって心配してるのよ、ボケたんじゃないかって」

「大きなお世話だ」

 むっとした表情の寅治郎に杏子はその声音を真似た。

「ひとの気遣いを無にしおって」

 ごらんの通り、困ったもんです、という心でたぶん、寅治郎はおれに目配せした。

「で、おじいちゃん、出来はどうなの? なかなかのものでしょ」

「見た目はまっとうになってきたが、シロが中でまだらになってる。パリジェンヌにはほど遠い」

「じゃ、なによ」

「そうだな、ローマのプリンセスってとこにしとこ、だいぶおまけだ」

「あら、パリジェンヌとプリンセスだったらプリンセスのほうが上じゃないの」

「見た目と中身と後味と、世の中いろいろあるんじゃ」

「知ーらない」

 杏子はさっと立って後ろ姿になったが、部屋を出る間際、振り返ってごゆっくりと笑った。

 結局この日は将棋を何番指したか覚えていない。気おくれと戸惑いと、忘れかけたざわめきとで、分が悪い勝負だったと思う。

 江の島が雨にけぶっていた。

 こんもりした島影が不時着したUFOのように見えてきて、そこから宇宙人が2人、人間の住みかでひとやすみしているんじゃないか、そんな空想をしたことを覚えている。

 ほの暗くなって夕餉の時分と思うから帰ろうとしたが、豪勢な寿司の出前が届いた。

 それだけではなかった。

 日曜の晩から夜勤アルバイトが始まるから、さすがに8時をまわったところで腰をあげたが、そぼ降る雨の中、杏子が門まで送りに出た。

 気の利いた文句のひとつも言っておきたいと思ったが、何も言えずに門前になってしまった。黒塗りのタクシーがエンジンをかけっぱなしで止まっていたので、運転手の気配がいまいましかった。あらためて礼を言って、タクシーの脇をすり抜けようとしたとき、後部ドアが開いて、杏子がおれを呼びとめた。

 とんでもない。

 断った途端、杏子は傘をかざしながら寄ってきて、右手でおれの背中を押した。

 よいしょ、よいしょ。

 茶目っけと息づかいと心づくしに、おれは困った。ダンボール箱の中にでも入ってしまいたい気分だった。

 乗り込んだおれに、また来てくださいと杏子は手を振った。

 タクシーが動き出してすぐに最寄の腰越駅でいいと運転手に言った。

「ご自宅か藤沢駅まで行くように言われています」

 金の心配をしていると察知したんだろう。運転手はかさねて言った。

「大丈夫ですよ、チケットいただいてますから」

「チケットって何ですか」

「タクシー・チケットですよ。お客さんが降りるときにサインしてもらえばそれでいいんです。請求は三上さんとこへ行きますから」

 そんなものがあることは知らなかった。

 ますます気がねだが、駅に着くまで料金メーターが気にならずにすむのも事実だ。安心したせいか、今こうして身分不相応にタクシーの後部座席にもたれているまでを思い返す。

 門構えで飛び石があってアジサイが咲いていて、格子戸が軽やかな音をたてて、大きな部屋に老人がいた。ボクシングのビデオテープが山とあり、面白い話を聞いた。江の島を見ながら将棋を指した。杏子という名の娘がいた。背中を押されてタクシーに乗った。

 その指の感触を確かめたくて、もたれた背をシートからはなした。手ざわりが長く残った。残したかった。

第5章



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