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◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ときに、カルロス・モンソンとマービン・ハグラーは戦うことになるんでしょうかね」
「どうでしょう。ハグラーはこのあいだムガビを倒しましたけど、モンソンはバルデスとやらなければなりませんから、はっきりするのはそれからでしょうね」
「いずれやるんでしょうな、互いにその気があるなら」
「そうですね、2人ともほかに骨のありそうな相手がいませんからね。きのうの深夜、アメリカのニュース番組でハグラーのインタビューをやっていました」
「そうですか」
「いつでもモンソンとやるけど、その前にバルデスに負けるな、みたいなこと言ってましたよ。ビデオをセットしようとしたんですが間に合いませんでした」
老人は笑った。
「あなたはやっぱりそんな人だった」
「そんな人って、どんな人ですか」
「ボクシングに目がなくて」
「往生際が悪い…」
「んな、滅相もない」
老人はたぶん、あわてたふりをして、おれは苦笑いをした。
「どうか気になさらずに、そんな意味で言ったんじゃありませんから」
「お褒めの言葉だと思っていますよ」
寅治郎は胸をなでおろした様子を見せてから、おもむろに訊いてきた。
「どちらだと思います?」
「何がですか」
「モンソンとハグラー、戦ったらどちらが勝つと思いますか」
「ハグラーじゃないかと思います」
「ほう、ハグラーですか。マーベラスですからな」
「三上さんは、モンソンですか」
老人は寂しげに笑った。
「いけませんなあ。年をとりすぎると変な思い入れが強くなるいっぽうで」
「モンソンに何か特別な思い入れがおありですか」
こんどは老人が窓外を見やった。
窓を雨だれがふた筋三筋伝わって消えた。
「観たんですよ」
「何をですか」
「モンソンがニノ・ベンベヌチをやぶって世界を奪った試合を。ローマでした」
おれはしばらく言葉が出てこなかった。あらためて飾り棚に目が行った。
「友だちに呼ばれましてね。そのときはもう今と同じ楽隠居の身でしたから」
「12ラウンドか13ラウンドのKO勝ちでしたよね」
「12ラウンドでした。モンソンの完勝です。ニノは何もできませんでした。モンソンはまったくの無名で、予想は圧倒的にチャンピオンでした。チャンピオンが勝つことをみんなが望んでいたということもあったんでしょうな。ハンサムで陽気でインテリジェンスにあふれたニノは、今でもイアリアボクシング史上最高のボクサーだと思います。そのニノが一方的に攻められて、端整なマスクは見るも無残に崩れて、最後はコーナーでうずくまってしまった。終電車の中やホームで酔っ払いがへたりこんでいるようなさまでした。めまぐるしく王座は変りますが、何年に一度かは見る者ひとりひとりの世界を変えてしまうような交代劇がありますよね。あの試合もそのひとつだったかと今にして思います。まあ、老いさき短い年寄りの世界なんてたかが知れてますがね」
「三上さん、その試合、モンソンとニノの試合はビデオであるんですか」
「たぶんそこの棚ん中の、どこかにあるでしょう。あとから友だちが送ってくれましたから」
「見たいなあ」
老人に沈んだ様子が見えたが、おれは気にとめなかった。
「いま見せてもらってもいいですか」
腰を浮かさんばかりのおれを老人はあわてて制した。
「あいや、ちょ、ちょっと待ってください」
「いけませんか」
老人は口許を真一文字にしてから、ふっと肩の力を抜いたようだった。
「どうも、なんと言いますか、あなたがそこまでボクシングがお好きだとは嬉しいかぎりですが、いや、ま、なんと言いますか、おかしなことがあるもので、その試合に誘ってくれたのは、あの、モンマルトルの、例のパリジェンヌでして」
「は?」
「どうぞ笑ってください。腐れ縁とはよく言ったもので、いやいや、関係は最初の一回きりです。ジャンという名でしたが、なにを血迷ったか、ジャンはわたしにそっちのケがないのがわかっても、なにかと世話を焼いてくれました。ジャンに会わなかったら、とうの昔にわたしは異国で野垂れ死んでいました」
身上話は嫌いだが、このときばかりはちがった。ボクシングの影がうしろにあったからだろうか。
「実はパリで小さなケーキ屋を出すことができまして、一銭にもならぬのにこれもジャンがいろいろ骨を折ってくれたおかげで」
「本場でお店を構えるなんてすごいじゃないですか」
「運が良かっただけです」
「運がいいだけで商売はできないでしょう。ましてパリでなんて、外国のことは知りませんが、それでも都会で成功なされたなんて、やっぱりすごいなあ」
「いやいや」
「で、そのお店は今はどうされてるんですか」
「息子夫婦がやってます」
「そうですか、繁盛してるんですねえ。あ、それじゃ、あの、三上さんはケーキ職人、あ、いや、シェフなんですか」
「そんな洒落たもんじゃありません」
「いや、どうも、お見それしました」
「昔の話ですよ」
「あの、それじゃ、さっきのお孫さんは」
「アンですか。アンは、行ったり来たりで、どっちつかずの身になってしまいました。誰に似たのか、気性があらいんで、逆に助かってますが」
何不自由ない暮しに見えて、いろいろあるもんだなあ。
おれは肩甲骨を動かして体の力を抜いた。
「それで、試合のビデオは見せていただけないんでしょうか」
しばしの沈黙のあと、寅治郎はあきらめ顔になった。ふーッと息を吐いたのがわかった。
「お恥ずかしい話ですが、見られないんですよ。いや、なんだか見るのがつらいと言いますか、まともに見られないような気がするんです。こうして話ながらも、余計なことを口走ってしまったと、や、お気を悪くされては困りますが、少し悔やんでいます。年をとるとろくなことはありません」
「いえ、三上さん、いいですよ」
残念だがわけありらしいから仕方がない。おれはできるだけ穏やかに応えた。
「ジャンが映っていましてね、その隣でわたしも映っているんです」
「その、モンソンとニノの試合にですか」
「ええ、リングサイドで観たもんで」
「リングサイドで観戦されたんですか」
「ジャンがチケットを用意してくれていましてね。オカマのくせに、なんて言ったら怒られそうですが、どうもそういう世界の連中は案外格闘技好きが多いようで、ことにジャンはボクシングが大好きでした。フランス国内だけでなく、イタリア、スペイン、モナコ、時間を作ってはほうぼうへ引っぱっていってくれました。いろんな試合いろんなボクサーを見ることができました。なかでもジャンはニノ・ベンベヌチにぞっこんでした。粋で強くてハンサム。そのニノがなすすべなく打ち込まれている。たまらなかったんでしょうな。途中からもうきちがいみたいになって、ニノ、ニノと大騒ぎですよ。7ラウンドでしたかねえ、モンソンの左フックが見事にテンプルにヒットしまして、ニノはダウン寸前でした。声が震えてると思ったら涙をぼろぼろこぼしてまして。おいおい、化粧が落ちるぞ、おい、そんなに泣いたら、ほーれ見ろ、頬に幾筋も川が流れたあとが出来てましてね、眼の周りもアイシャドーがあふれて隈になってました。つけまつげなんて、とうにどっかへいっちまってました」
「………」
「60をとうに越した爺が女に化けてるんですからな。ふためと見られぬ顔になって、それでも辺り憚らず髪ふり乱して、いや、髪ったって、どうせヅラでしょうが、わめくは泣くは足ふみ鳴らすは、いやまったく狂気の沙汰でした。コーナーポスト近くでニノが倒れ込んで、試合が終るとまっさきにエプロンにかけつけたのがジャンでした。すぐに人だかりがして、あとはもみくちゃで、わたしはジャンを見失ってしまいました。人がひくのを待っていると、ほうけた顔のジャンが戻ってきました。言うまでもないことですが、頭も顔も着ている服もぐちゃぐちゃでした。化粧くらいは直してこい、そう言うとこっくりうなずいて、トイレにでも行ったんでしょうな、なんとか見られる顔になって帰ってきました。おかしかったのは会場のスポーツパレスを出たあたりでジャンがぽつんと言ったセリフでした。なんて言ったと思います? 『モンソンもいい男よね』。声は涸れていたんですが、潰れた喉で、それが今まで聞いたことのない野太い声だったんで、わたしは吹き出してしまいました」
「面白いなあ、会いたいなあ。三上さん、そのジャンという方は今どうされているんですか」
「死にました」
「え」
「死にました。あの試合のあと、ビデオテープを送ってきて、電話で冗談を言い合ったのが最後でした。しばらくしてジャンの仲間の一人から連絡をもらいまして、心筋梗塞と聞きましたが、口さがない連中は若い頃に背負い込んだ病が脳味噌を壊したと噂しました。薄情なもんですなあ、わたしは葬式にも行きませんでした。去年ですよ、さすがに夢見が悪いと、重い腰をあげて形ばかりの墓参りを済ませたのは」
雨は緑に吸い込まれて、窓を伝う滴だけが動いていた。
「このごろになってようやくわかりました。70年も人間をやってきて、まったくお笑いぐさですが、わたしには友と呼べるのはジャンだけでした」
「すみません」
「なにをおっしゃる。年寄りの繰り言を聞かせてしまって、わたしのほうこそ申し訳ないことをしました。おわびに、どうぞ見たいテープがあればなんなりと、ただ、いま申し上げたような次第ですので、どうかあの試合だけはしばらくご勘弁を」