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■妄想家・夏野澤夫の架空小説 〜ばかばかしいけど、真剣!〜■

架空、空想、幻想、なぜか恋愛話まで…
世界ミドル級タイトルマッチ
[カルロス・モンソン vs マービン・ハグラー]

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 

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【第2章】
追 憶(1) 〜出会い〜

 三上寅治郎を知ったのは藤沢の場末の将棋道場だった。

 そのころおれはすさんでいた。ここらでおさめようと思っていた女にそっぽを向かれたのがケチのつき始めで、やることなすこと悉く裏目裏目と出て、生きていることにすっかり投げやりになっていた。親や友人の心配や世話を蹴飛ばして、見るもの聞くもの全てが面白くなかった。行き場がなかった。

 好きなボクシングも試合を見落とすことがあり、それを悔しいとも思わなくなった。

 食うために仕方なく工場で家電製品組立のアルバイトを始めた。昼勤と夜勤とあったが、今までの生活習慣と金銭とを考えて夜勤に就いた。仕事は単調だったが、素性の知れない連中とも言葉を交わすようになり、そのうち休憩時間に誰かが将棋をはじめて、無関心だったが、なにせ退屈なものだから、覗いているうちに、いつか管理監督者をも巻き込んで、勤めにくるのか将棋を指しにくるのかわからないといった、ふざけた職場になった。それでも皆そつなく業務は遂行していたから職務怠慢なんてことにはならなかった。

 おかしかったのは、たいがいへぼなくせにみんな異様に熱をおびて、金やるから負けてくれなんて冗談とばしても誰も応じなかったことだ。勝ったからどうだ、負けたからどうだということは何もないのに、あいつは強いと囁かれるくらいがせいぜいなのに、みんな真剣だった。

 おれは駒の動かし方を知る程度だったが、負けつづけることに苛立ちをおぼえて、ひそかに短手数の詰将棋を学んだ。テレビの将棋番組を見るようになり、ついに道場まで足を運ぶようになった。

 道場では初めに棋力を計る。席主が選んだ初段程度の相手と指してみて、それから自分と近いレベルの相手を探してくれる。三級の認定だった。ころあいの相手がいない場合は席主が相手をしてくれる。

 席主は七十がらみの穏やかな人品で、手に窮して、下段に『香車』を置くと、お強いですなあと商売柄誉めてくれた。世辞は承知だが、誉められたことが新鮮で、ちょっといい気分になる。が、それも束の間、打たれて初めて気づく急所にあっさり『歩』を決められて万事休すだった。

 或る日、席主を介して三上寅治郎と手合わせした。

 中肉中背、席主と同程度の年恰好で、くすんだ色合いのカーディガンを羽織った、なんということのない年寄りだったが、顔だちは鼻筋が通って、奥二重のまぶたに大きな目は、若いころ結構な男前だったのではないかと思った。

 指し始めは強くないと感じたが、中盤から終盤へ、相手の読みが勝った。三番やってなんとか一番おれが勝つ勝負だった。勝っても負けても、もう一番行きましょうと言われて、とうとう半日、盤を挟んだ。

 それからというもの、顔を合わせればどちらからともなく歩み寄って席に着く。いや、たいていは老人のほうから、またお願いしますと言って擦り寄ってきた。昇級昇段のからみがあるので勝手に相手を決めるのは好ましくないのだが、席主と老人とで暗黙の了解があったようで揉め事にはならなかった。

「私が相手でいいんですか」

 気になって訊いたことがある。老人はおれより棋力が少し上だったので、だからおれにとってはすこぶる面白いが、老人には物足りないのではないかと思ったからだ。

 老人答えて曰く、

「あなたの将棋は楽しい。欲がないのに往生際が悪いから…。いや失礼」

 将棋だけじゃないさ。自嘲するしかなかった。

 週末は将棋三昧の日々が二た月ほど続いて、星を五分に戻すようになってきた頃、遊びに来ませんかと老人から誘われた。

 心ゆくまで将棋を指しましょうという招きだった。

* * * * *

 カルロス・モンソンとマービン・ハグラーの一戦が取り沙汰され始めていた。

 モンソンはロドリゴ・バルデスとの再戦を控えていたが、これに勝利して引退することを公言していた。

「ただし、ハグラーがおれとやりたいと言うなら受けて立つ。奴が口をつぐんだままなら、おれは来月の試合を最後にリングを降りる。もうリングでは何もやるべきことはない」

 対してハグラーはにやにやしながらテレビのインタビューに応えて言った。

「向こうから勝手にごちそうがやってきた。願ってもないこと。いつでもOKだ。だがなモンソン、おれとやる前に目の前の敵に潰されるなよ。バルデスはお前にとっちゃ荷が重い相手だぜ。足元すくわれねえようにせいぜい頑張るんだな。大口叩くのはそれからだ」

 両者のそんなやりとりを憶えているのは、三上老人宅を初めて訪れた日と記憶がだぶるからだ。

 日曜日の午後、雨だった。小田急デパートで形ばかりの手土産を買って、江ノ島電鉄、通称江の電に乗った。

 ただの年寄りと思っていたが、腰越駅で降りて、坂道をのぼって教えられた所番地をたずねると、そこは門構えの屋敷だった。二度三度表札を確認してからインターホンを押した。ややあって聞き覚えのあるしわがれ声が洩れた。

 冠木門をくぐって飛び石づたいに歩む、その傍らにアジサイが気持よさそうに咲いていた。

 すぼめた傘のしずくを払って遠慮がちに格子戸をあけた。その心地よい音に挨拶を述べるのがおくれた。

 ゆったりした三和土、その先にまっすぐ伸びる薄暗い廊下。

 奥まった右手から光が射して、三上老人がかたむけた半身を見せて手招きした。

「よく来てくれた、ささ、あがってください」

 気おされたまま、廊下を進んだ。

 部屋は天鵞絨の絨毯が敷き詰められた、それはリビングのようでもあり、老人ひとりの部屋でもあるような、どちらともつかない、なにか割り切れぬ違和感を覚えたが、それでも二十畳はあったろう。

 障子が開けはなたれてあって、縁側があり、大きなガラス戸が嵌まっていた。広がる庭の、一面の緑が雨に濡れて輝いていた。その向こうに江の島がかすんで見えた。

 手にした菓子折がみすぼらしくて、いっそ手ぶらで来ればよかったと後悔した。

「さ、掛けてください」

「つまらないものですが」

 そう言って、腹の内でもほんとにつまらないものだと癪にさわりながら包みを差し出した。

「や、お心遣い有難く頂戴します、ささ、掛けてください」

 ソファの前のガラステーブルには、今にも飛び出してきそうな双頭の龍がエッチング加工であしらってあった。

「わざわざお越しくださって。天気もいいし、まことに今日は気分がいい。たいしたことはできませんが、どうぞゆっくりしていってください」

「はぁ。しかし天気がいい、というのは…」

「おかしいですか」

「いや、ま」

「晴れの日を天気がいいと世間では言うようですが、わたしは雨の日が天気がいいと思ってるもんで、いいのか悪いのか、気持が落ちついて、耄碌していくのが止まるような気になります」

 老人は快活に笑った。

 面白さと戸惑いとが交錯したが、おれはさっきから老人のうしろにある飾り棚が気になっていた。

 天井まで届くそれはおそらく特注で作らせたものだろうが、興味は中身だった。扉にはガラスが嵌まっているので光の反射が邪魔して、くまなく見通せるわけではないが、大量のビデオテープだった。

「あの、そちらの棚にあるのはなんのテープですか」

 老人の背後を見ながら問いかけた。

 背ラベルに『原田・青木』と書いたものがあって、もしやと思った。

「ああ。これはしょうもない、昔の道楽でして、古いボクシングのテープです。その筋に知り合いがおりましてね、いっとき、せっせと集めたものです」

 その筋とはテレビ局か収集家かヤクザか、そんなことはどうでもよかった。

「ちょっと見せてもらってもいいですか」

「ボクシング、お好きですか」

「ええ」

「そんな気もしていました」

 老人はにっこり笑ったが、おれはもう立ち上がって飾り棚の前へ歩み寄っていた。

 英語やスペイン語の走り書きのため、判読できないものも多かったが、おそらく1940年代から70年代まで、洋の東西を問わず、歴代の名選手の名前が背ラベルに書き込まれていた。

 旧家の土蔵に国宝級の絵巻や掛け軸が眠っていたなんて話は聞くが、まさかここにこんなものがあろうとは思いもよらなかった。

 どれでもいい、今すぐ中身が見たい。一本一本ためつすがめつして、できるならすべて貸してもらってダビングしたい。

 しばし佇んでいると老人の声がした。

「お気に召しましたかな」

「いやあすごいですね」

「ごらんになりたいものはありますか」

「厚かましいですが、全部見たいです」

「ほう、そんなにボクシングがお好きですか」

 老人はまた声をあげて笑った。

* * * * *

「若いとき、うちを飛び出しましてね、学校おえてすぐでした。ひとりでフランスに渡ったんですよ。一旗あげてやろうなんて、そんなことじゃないんです。外国への憧れもあったんでしょうが、無性に日本がいやでね。今となればなんでそんなにいやだったのかわからないんですが」

 飾り棚のテープに気を残しながら、機嫌を損じてはならないと、おれはソファに戻った。身上話ははじめてだった。

「フランスはどちらへ」

「パリです」

「花の都ですね。行ったことはないですけど」

「それがあなた、行ってそうそうとんでもない目に遭いましてな」

 おれは他人の身上話や打ち明け話が好きではない。たいがい愚痴や自慢だからだ。膝のりだして続きを聞きたいと思ったことは数えるほどしかなかった。だからこのときも、気がないのに気がある風をして、心は飾り棚のテープにあった。

「モンマルトルの丘をぶらぶらしてましてね、そしたら街角で女、うん、ま、女がね、わたしを見てるような気がしましてね、それがあなた、実にいい女で、これがパリジェンヌかと。そいつがこう、街灯に寄りかかってシナを作ってこっちを見てる。まさかと思って、それとなく振り返ってうしろを見てもそれらしき者はいない。向き直ったところへウインクされましてね、すぐに考えたのは懐ろ具合でした。それでも若かったせいでしょうね、右も左もわからず言葉も通じないのに、ふらふら女のところへ寄っていってしまいまして、そしたらいきなり腕をとられて。その力の強いこと。路地へ引っ張り込まれましてね、さてどうしようと、そいつはなにやらせわしない口調で、ま、なにを言ってたのかはあとでわかったんですが、そのときは何を喋っているのかわからない。こっちはさして金がない、それでもいいかと、めちゃくちゃなフランス語で懸命に説明したつもりだったんですが」

 ここで老人はこころもち背を丸めて声をひそめた。

「それがあなた、路地深く入ったところで、女は前かがみになって、こっちに尻を向けましてね、手早くスカートをたくしあげるんだ。下着つけてない、すっぽんぽん、わたしは棒立ちですよ」

 嬉しそうに老人は笑って、なおも低声で続けた。

「ええい、ままよ、おかしな話ですが観念しましてね、わたしもズボンをおろして、女のね、ナニをまさぐったんですが、ぎょっとしました。変なものに触れて、男だとわかりました。それでも据え膳食わぬはなんとやら、恥をかかさぬ程度になんとかいたしました。後にも先にも一度きりの体験です」

 こんどは声をたてて笑った。おれも笑った。

 そのとき部屋をノックする音がして、「おじいちゃん」という女の声がした。

 寅治郎は咳払いをして、おれは居住まいをただした。

 引き戸をあけて現れたのが杏子だった。ひとめ見るなり鼓動がして、おれは俯いてしまった。その眼の先、双頭の龍が躍るガラステーブルに、杏子はふたつのコーヒーカップを置いた。落ちついた指先があらぶる龍を鎮めたようで、きれいだった。

 寅治郎はまたちいさくしわぶきをした。

「孫のアンです」

 おれは顔をあげて会釈しようとした。

「おじいちゃん、またそんなこと言ってる、あたしはアンズじゃないのよ」

 杏子はきッとなて寅治郎を睨んだが、すぐにおれの方を向いて愛想笑いをした。

「杏子です。なにもお構いできませんけど、ゆっくりしていってください」

 その笑顔に、おれは赤面しているのではないかと気掛かりだった。

 退がる杏子を寅治郎は立ち上がって呼びとめて、なにやら囁いた。

「今やってます」

 きつい口調ながらこれも声を抑えて応えていた。

 背中に伸びた黒髪が、テレビCMのようにくるっと回れば、ゆるやかに波打つようでつややかだった。横顔で見るまなこは、額をとんと突いたらこぼれ落ちそうだった。

 杏子が立ち去ると、寅治郎は大きく息を吐きだして腰をおろした。

「きれいなお嬢さんですね」

 相手の心を汲んだつもりで、柄にもなく世辞を世辞とわかるように述べた。

「いやぁ、わたしの手には負えません。どうしようもないじゃじゃ馬でしてな」

「そんなことはないでしょう」

「いや、ほんと、手を焼いております」

「そんなふうには見えませんけど」

「ためしに乗ってみますか」

「は?」

「あいや、失礼。気分がいいとつい口がすべりますな。どうぞお気になさらずに願います」

 気にするなと言って気にしない者がいるだろうか。たまらなく気になる。飾り棚にあった心は吹っ飛んで、おれは雨に煙る江の島を見やるしかなかった。

第3章



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