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◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 【第1章】
ローマにて(1) 〜ランデブー?〜
行き交う人々はとりどりだが、陽気のせいか、皆のんびりした様子に映って、大試合とは無縁の、穏やかな人たちが集う場所に自分があやまって迷い込んでしまったような気になってくる。
教会と噴水と夥しい石造りの遺跡の街。
そこに歴史があろうが人気があろうが、こちらの思い入れがなければ、それはただの観光地の一つに過ぎない。その名所を訪れるために資金を調達し、面倒な手続きをくりかえして、はるばるやって来るのは、そこに極めて個人的な感情がはたらいてのはずだ。特別な感情がなければ旅はつまらないというのは貧乏人の発想なのか。
だだっぴろいスペイン階段のうえに聳え立つオベリスクを見上げても、その向こうに広がる空が青いというだけのことだ。そもそもイタリアなのになぜスペインなのか、調べれば分ることだがそんな気もない。
ただ、今しも彼女が長い髪をなびかせて、とびきりの笑顔で駆け下りてくる、そう思い込んでさっきから広場中央の噴水の前で待っている。
三上杏子、彼女は今日ここへ来ることになっている。
ひとりで来るか、友人と連れ立って来るのか。
友人と一緒ならボクシングを観に来たと言って、当たり障りのない会話をして別れてしまおう。ポケットに忍ばせた2枚の観戦チケットは、一枚を誰かにくれてやれば済むことだ。会場に入れなくてまごまごしている知人に会うかもしれない。おれはちっとも嬉しくないが、差し出せばこのうえない笑顔をくれるだろう。もらい手がなければ、かまうものか、ポケットの中で握りつぶせばいいことさ。ケチな根性がはたらいて誰にもやらず、闇に千切って棄ててもいい。
広場の隅のタクシー乗り場では運転手が客と口論している。まくし立てているところをみると料金の交渉だろう。うしろのタクシーが、加勢のつもりか、クラクションを鳴らしている。
粗末ななりで一見それとわかる物乞いもいる。始終何やら呟きながらうろついている。治安は良くないから気をつけろと言われてはきたが、この雑踏にスリやひったくりがカモを求めて紛れ込んでいるのは間違いなさそうだ。駅の暗がりや物陰には子供の窃盗団が潜んでいるとも聞いた。彼らの姿はガイドブックには載らないが、名所旧跡ではなく、そんな連中がたむろしていることが、ここが今でも都であることの証だと思う。
石畳そのものがはばたくような音は、振り向けば鳩の大群だ。飛び立つ空の彼方にはジェット機が浮かんでいる。その機影をしばらく追う。
飛行機なんて離陸したあと、緯度の調整だけやって、あとは地球がまわるに任せて、ヘリコプターのようにホバリングで目指す地点がやってくるのを待つだけじゃないか。そんな他愛もないことを考える。
日本から16時間、なけなしの金をはたいて、わざわざやって来て、おれはいったい何をしようというのか。
世紀の一戦を見届けに----たしかに表向きはそうに違いない。ならばなぜこっそりやって来たのか。観戦に来ていることを知っているのは三上杏子とその祖父、寅治郎だけだ。
プロボクシング、世界ミドル級王座統一戦。
反目しあう2つの団体の看板王者の激突。
カルロス・モンソン(アルゼンチン)とマービン・ハグラー(アメリカ)。ともに団体では無類の強さで、モンソンは14度、ハグラーは13度の防衛を誇っている。
世に夢のカードはあまたあれど、真に雌雄を決する勝負は少ない。両者の盛りの時期がずれていることが多いからだ。1981年に行われたシュガー・レイ・レナードとトーマス・ハーンズの一戦が色褪せないのは、未踏の高みにのぼらんとする傑出した2つの才能が、同じ土俵の同じ時間にあったからにほかならない。
上り坂か頂点か下り坂か----。戦う2人のボクサーがともに絶頂期であってほしいが、残念なことにこちらが望むような機会は簡単には訪れてはくれない。
それでも夢を見たいのだ。
ボクシング愛好家は自分と同じ時代に生まれ合わせたスター・ボクサー同士が拳を交えるところを、一方がピークを過ぎていても、ウエイトのハンデが多少あっても、そこは目をつぶって、優れた2人のボクサーがとにかく同じリングに立つところを見たいのだ。勝敗が決したあとにやってくる一抹の空しさは承知のうえで。
そこへ目をつけた輩が、これは金になると踏んでビッグ・ビジネスに仕立て上げた。年を追うごとに札束は乱れ飛び、操る側も操られる側も浮き足だって、ちょっといい選手が出てくると安直にスーパー・ファイトと銘打って矢継ぎばやに興行をうち、潰しあいを演じる。勝ち残ったほんの一握りが富と名声を得る。その裏で興業主がとてつもないマネーをせしめる。そんな構図が加速しながらずっと続いている。有能選手はリスクの大きな試合を勝ち続けてゆかなければならない。いきおい、興行はこけおどしの様相を呈し、選手寿命は短くなり、個々の選手の味わいが薄れていった。
そんな風潮にあって、カルロス・モンソンとマービン・ハグラーは外からの揺さぶりに動じることなく己の道をひた走ってきた。すべてのランカーを一掃して、とうとう相手がいなくなった。残すは互いしかなかった。
キャッチフレーズは、『ETERNAL(永遠の)・・・』。あとに何が続くのか、各人勝手にご想像あれということか。
タクシーがまたクラクションを鳴らした。騒音は絶えないが、人々は平穏だ。
杏子はまだ来ない。
噴水を回り込んで、スペイン階段に背を向け、広場へ通じる通りに目をやる。ブティックが軒を連ねるコンドッティ通り、買物やひやかしでこちらも人通りが絶えない。
はしゃいだ五人連れが目の前をさえぎる。杏子かもしれないと、うつむいたまま上目遣いに彼女たちを見遣った。中の一人と視線が合った。
「階段では飲食禁止よ」
「でもせっかく来たんだもん。ちょっとだけならいいでしょ」
「だめよ」
「ほら、あそこにアイスクリーム、じゃなかったジェラード売ってる」
「あそこで食べるのよ」
「あ、それじゃ、ジェラード持って階段バックにして写真、ね、写真撮ろうよ」
「誰に頼もっか、英語でいいのかなあ、イタリア語かなあ」
「スパニッシュでいってみようか」
「あんた話せんの」
「アディオス」
「ばか、さよなら言ってどうすんのよ」
「見て見て、花屋さんがある。まじー、うっそみたい、ひまわりがいっぱい、ほんとに花屋さんがあるんだ、信じらんない」
季節は夏へ向かっていた。
観光都市ゆえ美観を損ねるという理由はあるだろうが、それでもあちこちに試合のポスターは貼ってあった。街をあげての、いや、国をあげての催しだろう。なのにこの広場では誰も注意を払おうとしない。そこかしこのショップにだってポスターは貼ってある。なのにみんな試合そっちのけでぺちゃくちゃ、たぶんくだらないことを喋っている。
外国語はわからないが、ひとりとして試合のことを話している者はいない。そんな人が一人でもいるなら、こんなに朗らかな装いが広場を包むわけがない。
これから大一番が始まろうというのに不謹慎じゃないか、などと力んでいるのはおれだけで、ひとり深刻ぶって佇んでいる気になっていた。
ひと月ほど前、杏子と会った。
「センチメンタル・ジャーニーね」
肩にかかる髪を両手で襟首に束ねて、彼女は珍しくこわばった笑いを笑った。意味合いはわからなかったが、パリを皮切りにフランス、イタリア各地を10日間かけて友人数人と巡ることを教えてくれた。
「女ばかり、彼氏探しの旅ってとこね。自分探しの旅なんて流行らないし、わけわかんないわ。ひとりでいい気になって、なんだか変に思い上がっている感じがして、やーね」
本音をあけすけに言ったように見せかけて、実は本心を隠しているような気がした。黒目がちの大きな目はおれの知らないところを一瞬見たようだった。
「こんどやるんでしょ」
「何が」
「モンソンとハグラー」
「らしいね」
「観に行かないの?」
「行ってみたいけど、まあ無理だろな」
「ちょうどイタリアだけどなあ」
「観戦するつもりか?」
「まさか。あたしだけ別行動ってわけにはいかないわ。でも…」
「でも?」
「抜け駆けして観にいっちゃおうかな」
悪戯っぽい笑いは手に余ったが、おれはそのときモンソン・ハグラー戦を観にいくことをぼんやり想った。
数日後、試合当日はローマ滞在だと彼女から電話があった。
誘いでも謎掛けでもない。世紀の対決が行われる同刻に同地にいるという茶目な自慢だった。
愚かにもおれはあとさき考えず観戦を決めて、ミスター・ミヨシに連絡をとった。ミスター・ミヨシは知る人ぞ知る、ボクシング海外観戦の表も裏も知り尽くした猛者である。
時間はない。売り切れは覚悟したが、だめもとでミスター・ミヨシに頼んだ。
チケット2枚お願い、いや、そこをなんとか、あ、え、いやいや私じゃないんです、いや、ほんと、世話になってる人が、そうそう、どうしてもって、あ、ええ、そうなんですよ、なんとか、はい、ええ、そうです、いや、どこの席でも、え、ああ、いいですいいです、立ち見でも、ええ、構いません、あ、そうだ、立ち見がいい、あいや、立ち見でいい、そうです立ち見で、はい、2枚です…。
立ち見なら杏子が来なくてもダメージが小さくてすむと、ずるい考えが浮かんだからだ。
骨を折ってもらったミスター・ミヨシには嘘をついてすまないことをした。もしも会場で鉢合わせしたら、知人が急遽来られなくて、なんて嘘の上塗りをするしかない。
彼女が日本を発つ前日、電話した。
「観に行くよ」
「何を?」
「モンソン対ハグラー」
「え?」
「モンソン・ハグラー戦を観に行くよ」
「ほんとお」
「ああ。どうにかチケット手に入ったからね、立ち見だけど」
「やったね。いいなあ」
電話の向こうの笑顔が見える。
彼女の笑顔は、ぱあーっと花びらが開いていくさまを見るようで、比類ないものだ。あばたもえくぼと嗤われるだろうが、仕方がない、こんな笑顔見たことないと思っちまったんだから。
笑顔はたいていすてきなものだが、まれにそれがだめな人がある。有名無名問わず、そういう人をおれは信用しない。人望があろうが評判をとろうが正論を吐こうが、信用しない。
なんて、ひとさまのことをとやかく言えた義理じゃないか。
しかしあの笑顔、惚れた男の前では、どれほどのまばゆさになるんだろうか。なんの脈絡もないがふいにへんてこりんな文句が浮かんだ。満面の笑み、満開の花、満天の星…。どれでもいい、その中へ落ちてゆきたい。
「もしもし、もしもーし」
「うん」
「聞こえる?」
「うん」
「誰と行くの?」
「ひとりだよ」
「そ」
間があいて、おれは彼女の旅の無事を言おうとしたが、本当に言いたいことを臆病なおれになりかわって、彼女が片付けものをするようにてきぱき言ってくれた。
「ね、ランデブーしよ」
「ランデブー?」
「そ。試合当日、スペイン広場、噴水のところ。時間は…そうね、なんでもいいわ、噴水のところから見えるショップが開いてから1時間以内」
応えられなかった。
「どう? 面白そうでしょ」
「あ、い、うん」
「何かご都合あるの?」
「あ、いや、試合観るためだけに行くんだから」
「よし、決まり」
「だけど、そっちは友だちいるだろ。スケジュールも細かく組んであるだろ」
それとなく様子をさぐったが、杏子は応えない。
「試合は何時から?」
「どうかな、昼過ぎだろ。夜の照明は使えないみたいだし、日が落ちての開放はさすがに無理みたいだからね」
「そ。じゃ2時間はだいじょぶね。でも良かった、面白いことが最後に待っていそうで」
手もとのチケットを見ながら、おれは杏子の言葉を聞き流していた。チケットが2枚あることを言おうか言うまいか、ランデブーという言葉を杏子がどういう意味合いで使ったのか、そんなことに気が行っていた。
「愉しみだわ」
はっきりとその笑顔が見えたが、チケットの件は言い出せないまま電話を切った。重苦しさは残ったが、反面ほっとしている自分がいささか情けなかった。
タクシーがまたクラクションを鳴らした。数珠つなぎになってきた黄色のタクシーは、下品でしたたかだった。
鳩もまた群れをなして飛び立った。
本当に杏子は来るんだろうか。
あらためてスペイン階段に目をやったとき、後ろから背中をつつかれた。