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◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「ここじゃあ最初っから下手な真似はできねえよ。監視カメラが、ほら、あっちにもこっちにも」
ボブは顔をあげて、ガレージの一角や窓枠や門扉や塀や、そこらじゅうをアゴで指し示した。
「クルマだって無断で動かすと足がつく仕掛けになってんだからな。だからあんたが言った、目が届かなくても悪さをしないっていうのはさ、嬉しいが当ってねえよ。悪さなんかできねえようにすべてが計算されて作られてんだよ。かなりなワルじゃねえと、こうまではできねえっていうくらいの、や、いけね、口がすべった」
ボブにつられてジョナサンも笑い、和気のようなものがただよった。
「よくは分からねえけどよ、こんなヒマしてていいのかなぁって、さすがに思うことがあるよ。いいんだったらいいんだよ。おれは怠けるの好きだからよ。退屈なんて苦にならねえし、からだ動かすのは子供んときから嫌いだったからよ、やることなかったら寝るのが一番だってずっと思ってる。だけどよぉ、天下のドン・キング様がよぉ、いつまでもタダメシ食わすわけねえよなぁって」
「それはお前…」
ジョナサンは応答に困ったが、いつにないボブのまなざしにうろたえを見透かされまいとあわてて取り繕った。
「お前はタダメシ食わせてもらってると思っているかもしれないが、旦那様はお前を優秀な運転手として見込んで、それでここへ連れてきたんだろ。お前のことをあてにしてるはずだ。ここぞというときにはお前はきっちり仕事をしてきたじゃないか」
「どうだかなぁ。べつにおれじゃなくてもできることじゃねえかなぁ」
「お前、ほんとにそう思っているか。旦那様の運転手を勤めることが、誰にでもできる簡単な仕事だと思っているか。気楽なアルバイトと思っているか。そうであるならとうの昔に旦那様は求人誌に募集広告を載せてるよ。いや、そんなことしなくても旦那様だったら、いつでもわんさか成り手があるよ。お前がどんな経緯でここへ来たのか、今ちょっと知ったが、詳しいことは知らない。でもなボブ、旦那様の眼鏡にかなったからこそ、お前はここにいるんだろう」
「そうかなあ」
「そうだよ」
「まあなんでもいいや。だけどよぉ、なんかこのごろ変なんだよなあ」
「何が」
「おれなんかこの先ロクなもんになんねえってのは分かってんだけどさあ、年も年だしよぉ。だけどなんか、だめならだめでいいんだけどよぉ、一回くれえ、なんかサマになるようなことしてみてえかなあって、そんなこと思うことがあんだよ。なんだろなあ。旦那に拾われるまでは考えたことなんかなかったんだけどなあ。
チャンピオンがクルマに乗るだろ、旦那はご機嫌で、おれは言われた通りに運転してさあ、ただそれだけなんだけどよぉ、いっしょにいるっていうだけで、なんか熱いもんがこっちへも流れてくるみたいでさ、そんなことが何度もあるうちに、おれもいつどうなっちまうか分かんねえし、だったら早いとこ、なんかサマになるようなこと、一回くれえしてみてえかなあってよ。
だけど何もできねえ。だけど何かの縁かもしれねえし、おれにできそうなことったら、そうだ、旦那の身替りんなって、旦那を助けるってなあ、ちっとはサマになることかなあって、そんなこと思うとさあ、なんかいい気分になってよぉ、よーし、早くそんな場面に出くわさねえかって、ハンドル握ってるときはとくに思うんだよなあ」
ジョナサンはそっと溜息をついた。
「ボブ、お前の言ってることは、たとえば、ふいに誰かが旦那様に銃口を向けたなら、すかさず身を挺するってことか。旦那様を庇って、お前が撃たれて死にますってことか」
「まあそんなところかなあ」
「人が聞いたらバカだって言うよ。とんだお笑いぐさだ」
「そうかなあ」
「お前の話はな、感性はいいが発想がだめだ」
「なんだよぉ、むずかしいこと言わねえでくれよ」
ジョナサンは話題を変えたかった。このまま続けていけばやりきれない思いになりそうだった。
お前が命がけで旦那様を守ろうとしなくても、その前に旦那様がちゃんとお前を盾にするよ。長いこと世話になってきた人のことを悪く言うのは気がひけるが、旦那様はドン・キングなんだよ。悪名高いプロモーターなんだよ。闇の世界と、たぶん、がっちり手を組んでいる人なんだよ。わたしたちが旦那様の身の安全を気遣うことはないんだよ。長年に渡ってボクサーを、殊に貧しい出身の黒人ボクサーを食いものにして巨万の富を手にしてきた人なんだよ。そのおこぼれで暮らしているわたしにはほんとは何も言えないが、しかし、だからと言って、そういう人のために死んだって犬死にだよ。サマになることが犬死になんて、そんなこと、ありか。
十に一つ、百に一つ、千に一つでもいい、世界のボクシングの最前線にいる旦那様に、おべんちゃらでなく、ボクサーを褒めてほしかった。勝敗のいかんにかかわらず、いいボクサーだ、いい試合だったと真から感心するセリフをききたかった。
プロボクシングは生き馬の目を抜く巨大ビジネスの世界で、そこはわたしなんかではおよそ計り知れない、足を踏み入れて初めてわかる、魑魅魍魎跳梁跋扈する苛酷な場所なのかもしれない。きっとそうなんだろう。そこに身をおいていれば、のんきなことは言っていられないかもしれない。そうであっても、わたしごとき者になら、一と言、二た言『ジョナサンよ、奴は凄いボクサーだ。今夜の試合は素晴らしかったぜ』そう漏らしても旦那様が損をすることはないだろうに。
旦那様がわたしごときにそんなセリフを吐いたなら、それは旦那様の本心だろう。そんなことが一度でもあったなら、旦那様がたとえ悪逆無道の人物としても、わたしだって、旦那様のために犬死にしたって構わないと考えるかもしれない。
真顔の自分に気づいてジョナサンは肩の力を抜いた。ばかだなあ。そんなきれいごとは遠い昔に置き去りにしたんだっけ。ジョナサンはあきらめ顔で言った。
「結構な心掛け、ということにしておくよ」
「ほんとかい」
「ああ、そのときが来るまでせいぜい体調を整えておくんだな」
ボブは嬉しそうに笑った。ジョナサンは不快に笑った。
ジョナサンは青空を見上げた。
こんな天気にこんな話で日課に戻りたくなかった。他愛のないことを話して、笑いながらこの場を切り上げたかった。
「それよりもボブ、わたしにもずっと気になってることがあるんだ」
「なんだい」
「うむ」
ジョナサンはわざと難しい顔をした。
「なんだよぉ。旦那に言うなってんなら、おれ、言わねえよ」
「うむ。旦那様には言ってほしくないことだ」
「じゃ、言わねえよ」
「ほんとうに言わないな」
「言わねえよぉ。言わねえから早く言ってくれよぉ」
「ほんとうに言わないな」
「言わねえよぉ。あんたもしつこいな」
「じゃ、言うけどな。ボブ、お前、ほんとに旦那様には言わないな」
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「じゃ、言うけどな。旦那様のあの髪の毛、あれは本物か?」
「本物かって…そんなことおれよりお前のほうがよく知ってるだろ。カツラじゃねえかって疑ってんのか」
「違うよ。地毛だろうけどな、あんなふうにいつも逆立ってることが不思議なんだよ」
「なーんだ、あんたもつまらねえこと、気にしてんだなあ」
「そうかね」
「そうだよ。気になるってえからなんだと思ったら、なーんだ、そんなことか」
「お前、旦那様を乗せてるときに、旦那様、櫛かなんか出して、髪の毛を立てたりしてないか」
「知らねえなあ。ハナからああいうもんだって思ってるせいかなあ、気をつけて見たことねえなあ」
「おかしいと思わないか」
「何が」
「あんなふうに髪の毛が逆立ってることが」
「べつに」
「そうか」
「おぎゃあと生まれて、おっきくなっていけばよぉ、顔が立ったり腕が立ったり腹が立ったりするじゃあねえか」
「お前、それは意味合いがちがうぞ」
「寒かったり怖かったりしたらよぉ、鳥肌ってやつが立つじゃあねえか」
「ふむ。総毛立つってことか」
「だからよぉ、髪の毛が立ったって、べつにおかしかねえさ」
「するとやっぱり旦那様が言う通り、或る夜、突然啓示があって、あんなふうに逆立ったのかなあ」
ジョナサンはいつぞやキングがインタビューに応えて、逆立つ髪の由来について喋っていたことを思い起こした。
「縮れ毛がいきなりうなりながら一本残らず立ったって、旦那様は言ってたが」
「おれも覚えているぜ。テレビで喋っていたよなぁ。あんたの見たのとは違うかもしれねえけど、旦那のことを扱ったドキュメントかなんかだった。ありゃ可笑しかった。低くうなりながら髪の毛が立ったなんて言っておきながら、その立つ音が、ピンピンピンなんて、あそこだけえらい甲高い声を出してたよな。悪いが笑っちまった。おれには太い声で物言う旦那様にあんな高い声があるなんて驚いたよ」
「ボブ、お前、その話、信じてるのか」
「その話って、なんの話だ」
「旦那様の髪の毛が自然に立ったっていう話」
「どうでもいいこった。旦那お得意のはったりかもしんねえけど、立とうが立つまいがおれには関係ねえこったよ」
そう言ってからボブはふと下卑た笑いを浮かべて、ジョナサンを下から上へ、爪先から頭のてっぺんへ、なめるように見た。
「どうかしたか、ボブ」
「へへ」
「なんだ? 変な笑いして」
「だけどよぉ、年をくいすぎると立たなくなるもんもあるよなあ」
「髪の毛が薄くなってくるってことか」
「そうじゃねえよ。年とるとよ、足腰とあっちのほうはだめになってくるって言うじゃねえか。あんたは年のわりには元気だから、まだ大丈夫だろうけどな」
ボブは意味ありげにジョナサンを一瞥してから声をあげて笑った。ジョナサンはむっとして、やっぱりこんな奴どうなったってかまうもんか、犬死でもなんでも勝手にするがいいと思った。
→ つづく