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◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「大丈夫か、ボブ。少しは治まったか」
「ああ、さっきあんたから貰った薬が効いたようだ」
「しばらくは何も口にしないほうがいい」
「ああ」
「横になって休んだらどうだ」
「そうしたいんだけどよ、あしたに備えてクルマを洗っとかなくちゃなんねえ」
「落ち着いたら髭をあたってやるよ」
「ありがてえ」
「服はあとで揃えておくからな。靴は磨いてある」
「ああ」
「旦那様はきょうは戻らないだろう」
「たぶんな。だけど忘れ物をしたとかなんとか言って戻ってくるかもしんねえし、いつなんどき、お呼びがかかってくるかもしんねえからなあ」
「明日の深夜までは戻らないだろう。試合の段取りや後始末であれこれ忙しいはずだから、2〜3日は姿を見せないかもしれない」
「いいなあ。まったく羨ましいぜ。腐るほどのカネがあって、怖いものなんてなんにもなくて、やりたいことをやりたいようにできてな。あれこれ陰口叩かれたって誰も面と向かっちゃ旦那にゃなんにも言えねえ。あれはあれでたいしたもんだぜ。おれは、真面目で褒められるより、世間様からなんと言われようと、断然カネがあるほうがいいや。そうすりゃ、でっけえ家に住んで、でっけえ車に乗れるもんな。しこたまギャンブルできるし、うまい物たらふく食えるし、かわい子ちゃんも思うがままだし、ホテルのスウィートでねんねもできるだろうしな。先々の心配もしなくてすみそうだし、やっぱりカネがなくちゃ話になんねえなあ…」
聞いていてジョナサンはいやな気持になった。
食いしん坊で間抜けでのろまで怠け者。旦那様はボブのことをそう言った。黒人の面汚しと罵った。ボブがやって来て1年たらずだが、怒られ役はいつもボブだ。旦那様の憂さ晴らしの恰好の相手になっているふうもある。そのぶん、わたしへの風当りは和らいだ。面と向かって言ったことはないが、このことはボブに感謝すべきだと思う。
だからというわけではないが、ボブは愛すべき奴だと思ってきた。たしかに働き者ではないが、人の目を盗んでやる悪さなんて、つまみ食いと昼寝くらいのもので、鈍いところはあっても忠実に旦那様の言いつけに従っている。事あるごとに旦那様から、けちょんけちょんにされても、ボブは凹まないし、根に持つことも歯向かうこともない。わたしにはそう思える。卑屈になって顔色をうかがう様子もない。わたしにはない鷹揚な性質を感じる。
しかしながら今のような愚痴を聞くと、それは誰もが秘めていることなのかもしれないが、その性質の中核にどうしようもない図々しさと浅ましさとが幅をきかせて居座っているのかと、そんなことを思う自分がまた嫌になる。
ジョナサンは皮肉のつもりで言った。
「だったらお前も旦那様のように働いて金を稼げばいい」
「あんなふうにはできねえ」
「あんなふうって、どんなふうだ」
「あんなふうとはあんなふうだよ。ブルドーザーみたいにぐいぐい進んでいくような」
「お前もやってみればいいじゃないか」
「おれにはできねえよ」
「なんで」
「なんでったって、うーん…おれはドン・キングじゃねえ」
「ドン・キングになりゃいい」
「なりゃいいって、なれるわけねえじゃねえか」
「なぜ」
「なぜったって、おれは馬鹿だし、あんなパワーは持ってねえ」
「なぜ」
ボブの目が一瞬険しくなった。
「あんた、なんでそんなにおれにからむんだよぉ」
ジョナサンは空気をほぐすかのように視線をそらして、痒くもない頭を掻いた。
「からんじゃいないよ」
「からんだよぉ」
「からんじゃいないって。そんなに金持ちになりたかったら、それなりに働くしかないだろ」
「働いたって金持ちになれるかどうかわかんねえよ」
「だから、やってみればいい。あきらめる前にやってみればいい。お前はまだ若いし、そんな立派な体格してるんだし」
「そんなに若かぁねえよ」
「わたしに比べれば充分若いよ」
言ったそばでジョナサンは心の中に苦笑いを浮かべた。
わたしと比べたって仕方がないよなあ。
「いくつになるんだっけ」
「もう40になっちまうよ」
「まだ40かぁ、いいなあ」
わたしは60だ。
「よくねえよ。おれみてぇなのは働くとこだってねえんだ。たまたま旦那に拾われたんだ。いまさらまともに働こうったって知れてるよ。だったらここにいられるだけいて、ラクしてたほうがいいよ」
わからないでもないが、だったらむやみに羨むな。
口にはしないが、ジョナサンはそう言ってやりたかった。
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しばらく沈黙があったが、ボブは明るい調子で切りだした。
「おれ、前から気になってることがあるんだけどよぉ」
口許に愛嬌がある。ジョナサンは、ボブを愛すべき奴として許してやろうという気持になる。その口調から腹痛もどうやら治まる気配だ。
「なんだい」
「このこと、絶対、旦那には喋ってほしくないんだ。な、約束してくれよ。いや、悪いことじゃないんだ。旦那のほうから、もしも話があったら、そのときは喋ってもいいけど、それまでは、な、約束してくれよ」
「なんだか分からないが、悪いことじゃないんなら、まあ約束するよ」
「ほんとだぜ」
「ああ」
「ほんとにほんとだぜ」
「ああ」
「ほんとにほんとだぜ」
「しつこいな。約束するよ」
「おれさあ、運転手で雇われたろ。だけど毎日運転するわけじゃねえだろ。せいぜい10日に1回、へたすりゃ月に1度だ。あとは別になにするわけじゃねえ。クルマ磨いて、気が向けば、あんたが精だしてやってる芝の手入れを手伝うくれえだ。給料なんてねえが退屈なのはおれの性に合ってる。まともなごちそうはねえが、おれとしちゃ食いっぱぐれがねえからありがてえ。それにおれ、クルマ好きだからよ。ロールスロイスのコンヴァーティブルやリムジンに毎日触れられるなんて、ウソみてえな話だ」
「ボブ、何が言いたい?」
「旦那を迎えにいくときはたいてい新しいチャンピオンも乗ってる。ほやほやの世界チャンプだ。旦那はご機嫌だ。ずっと喋ってる。黒人の解放だとかなんとか難しい話から始まって、しまいにはチャンプを我が子だとか我が親友だとかって呼んで、抱きしめたり頬ずりしたり肩をたたいたりして、2人で大儲けしようって、言うことは決まってる。おれはそんなこたぁどうでもいいんだ。たださぁ、とんでもねえ高級車を運転して、そのクルマの中には世界一のボクサーがいる、世界一のボクサーと同じ場所にいる、それだけでおれはたまらない気分になるんだ。タキシードを着せられるのは、いまだに慣れないけどな」
「気になることというのは、ボブ、なんなんだ」
「ああ、そうだ。今も言ったけど、おれ、運転手で雇われたはずだけど、ほんとは違う目的で雇われたんじゃねえかって」
「違う目的って、どんな目的だ」
「そりゃ分からねえけど、もしかしたら、おれ、旦那様がやばいってときにさあ、旦那様のダミーになる目的で雇われたんじゃねえかって」
ジョナサンははっとした。
ボブを初めて見たとき、その姿形が主人によく似ていて、身長はわずかに及ばなかったが、ボブが言ったことと同じことを思ったからだ。違っているのはその眼差しと頭髪だけだった。それなりの服を着せて髪を逆立てて、ひょいと後ろ向きにすれば、それはドン・キングだった。まっさきにそんなことを思う自分のさもしさに嫌気がさした。
「おれ、それでもいいと思ってんだよ。働きがねえわりにはいい思いさせてもらったからよ。だいたいさ、住むところもなくて、ゴミ箱あさっちゃ、食えるもんも食えねえもんもいっしょくたに口ん中入れてよ、それで腹くちくしちゃ、道ばたで寝転んでたおれに声かけてくれてさ、お前、クルマ乗れるかって、乗ってみろって、裏通りでよ、いきなり言われてよ、あんときの座席のふかふかした感じったらなかったね。おれ、ガキの頃からなんだか知らねえけんどクルマが好きでさ、ひとさまのものを盗んじゃ乗り回したもんでさ、あしたからおれんとこへ来いって、その場で言われてさ、金はやらねえが運転手で使ってやる、寝るとこと食うことは面倒みてやる、ふざけた真似だけはやらかすんじゃねえぞって」
言うにまかせてジョナサンは黙って聞いていた。
「いろんな事情があってよ、しょうがなくホームレスやってる連中とは違ってよ、おれなんかただの怠けもんだからよ。親にはとうに愛想つかされて、だいたいさ、こんな太ったホームレスなんてめったにいねえだろ。社会のクズよ、そんなおれを拾ってくれたから、だからよ、旦那様、早くおれに、そ言ってくんねえかって、実はこのごろ待ってんだよなぁ」
ジョナサンはボブの目を見た。見られてボブはうつむいて、声は立てずに笑った。
→ つづく