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■妄想家・夏野澤夫の架空小説 〜ばかばかしいけど、真剣!〜■

あの「世界的プロモーター」の、ある1日
旦那様はドン・キング


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

第1章
第2章 ★ 備えるあるじ

 濃紺のスウェット上下を着た、浮かぬ顔のボブは下腹をさすりながら力なく廊下を歩いていた。188センチ120キロの巨体の足取りは重い。向かうはキングの書斎である。荒々しい足音が聞こえたので立ち止まると、角から慌てた様子のジョナサンが現れた。

「た、たいへんだボブ、旦那様が、旦那様がおかんむりだ。すぐに旦那様のところへ行け」

「何をそんなに慌てているんだ。言われなくったって、いま行くところだよ」

「すぐに行くんだ。でないとボブ、お前…」

 肩で息をしながら、ジョナサンは右手で自分の首を切る仕種をして、解雇されることを暗示した。

「そんなにあわてなさんな。はったりと脅しは旦那のオハコじゃないか。それでもクビならクビで構やしないけどさ、そんなことより腹が痛くてどうにもたまらん」

「お前、夜中にコンビニのゴミ箱をあさってるのか」

「バカ言え。夜中にこの屋敷をぬけて外へ行けるわけねえだろ。監視カメラがいくつあると思ってんだ。鼠一匹這い出せやしねえ。すぐに警備の連中がやってくるぜ。下手をすりゃ、姿はねえが、旦那を守っているヒットマンにその場で撃ち殺されるぜ。そうなりゃ死人に口なしだ、ありもしねえ罪をおっかぶされて、罪人のままあの世ゆきだ。おんなじ死ぬんでもよ、せめて最期ぐれえ、ちったぁサマになりてえよ」

「たしかに、言われてみればそうだ」

「おお腹がいてえ」

「大丈夫かボブ。いったいどうしたんだ」

「おれにだってわからねえ。ゆうべのパーティー、白人の陪審員たちを集めて盛大にやってたろ」

「あれはわたしが仕切ったが、それがどうかしたか」

「あのあと、お前さんとK-1のビデオ見て、それでもって寝ようとしたんだが、小腹がすいちまって、夜中にキッチンのゴミ箱ン中をつまんだんだが」

「えッ、お前、あのゴミ箱を」

「暗くてよく分らなかったんだが、いつものことだろ、おれにとっちゃ、ごちそうだ」

「お前、ほんとにそんなことしたのか」

「したよ」

「ほんとか」

「ああ」

「ばかだなあ。ゆうべの客はひどいもんさ。わずかの酒に浮かれて、煙草の吸殻やら痰やら、平気で皿に吐き出しやがるんだ。どれだけ偉いか知らないけど、マナーもなにもあったもんじゃない。料理を作ってこんな情ないことはなかった」

「うぇッ…。じゃ、なにかい、吸殻だの痰だのが残飯に混じってたのか?」

「ヨダレやはなみずなんかもあったな」

 ボブは喉と下腹をおさえて低く唸った。

* * * * *

「旦那様、遅くなりまして申し訳ねえでごぜえます」

 ドアの向こうからボブの声がしたとき、キングは書斎の姿見を前にして、特注のムースでもう一度白髪を逆立てていた。

「ボブか」

「へえ」

「お前、下痢ピーか」

「へえ」

「馬鹿野郎。食い意地ばっかり張りやがるからだ。いいか、おれの言う通りに動けないならいつでも出ていってもらうぞ。おれは24時間働いてるんだ。1秒たりとも無駄にしたくないんだ。お前ごとき奴のために時間を狂わせられてたまるか。いいか、自分の立場をよーく考えろ」

「へい、ほんに申し訳ねえでごぜえます」

「ふざけた真似をするんじゃねえ」

「へい、ほんに申し訳ねえでごぜえます」

 ボブは心ここにあらず、ごろごろ鳴る腹をさすりながらドア越しのキングの小言に、通りいっぺん詫びていた。「明日は試合だ」

「へい、承知してるでごぜえます」

「腹を下してる暇なんかねえんだぞ」


 
「へい、ほんに申し訳ねえでごぜえます」

「明日の試合はロイ・ジョーンズと、あー、誰だっけ」

「アントニオ・ターバー、でごぜえますか」

「ターバー? おおそうだ、ターバーだターバー。ターバー、ターバーと何度も繰り返すとバターになるが、バターじゃないぞ、ターバーだ、いいか、よく覚えておけ。間違えるな」

「へい、再戦でごぜえますな」

「サイセン? チャリンと投げ入れるやつか」

「それは旦那様、お賽銭でごぜえます。再戦……リターンマッチでげす」

「わかっておるわ、試合にはビッグマネーが音を立てて乱れ飛ぶことを遠まわしに言ってみただけだ。いいか、いつものように試合開始3時間前に会場へクルマをつけて待っていろ。地下2階、いつものところだ。守衛は承知している。係りの奴らにも話はつけてある。クルマは黒のリムジン、あれでいい」


 
「へい」

「ぬかるなよ」

「へい」

「しくじったら、わかってるだろな。お前に明日はない」

「旦那様、あっしは運転にかけちゃあ、誰にも負けねえ。今までだって、ただの一度も失敗したことはねえでごぜえます。体の具合が悪くっても、気がかりなことがあっても、ハンドルを握ればあっしは、わずらいがぴたりと止んで…」

「うるさい。お前の講釈なんぞ聞きたくもない」

「へい、申し訳ねえで」

「いいか、チャンピオンが勝ったら、お前はそのまま帰れ、用はない。挑戦者が勝ったら、いいな、わかってるな?」

「へい」

「そやつを連れて行くからな。おれはいつだってチャンピオンと一緒に帰るんだ。準備万端、怠るな」

「へい」

「ナリはちゃんとしておけよ」

「へい」

「小綺麗にしておけよ、きちんとした恰好をしておけよ」

「へい」

「余計な口は利くんじゃねえぞ」

「へい」

「よし、さがれ」

「へい」

 ボブはドアに一礼してから、こころもち首をかたむけた。ぶよぶよの下腹に手をあてがい、右に左に体をかしげながら、長い廊下をゆらりゆらりさがっていった。

つづく



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