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◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 第1章 ★ 気まぐれあるじ
ええい、構うものか、腹におさまれば同じこと。湯なんか沸さなくていい、カップなんかいらない。インスタントの粉末を、砂糖を、そしてヤカンの口から水を流し込めば、コーヒーを飲んだことになる。そうだ、飲んだことになるんだ・・・。
英国の喜劇役者ローワン・アトキンソン扮するミスター・ビーンのコントの1コマである。
黒人で唯一成功をおさめた、プロボクシングの世界的プロモーター、ドン・キングは腹をかかえて笑っていた。
バカな奴だ。たかがコーヒー1杯であのざまはなんだ。いかにも人間が小さい。あんな料簡じゃ、でかいことは何ひとつできやしない。愚か者め。だが理窟は理窟だ。回転式の肘掛椅子に腰をおろしてビデオを見ていたキングは、しまいに底意地の悪い笑みを浮かべた。
そのとき背後でノックがした。
「誰だ」
「おはようございます、旦那様」
「ジョナサンか、開いている、入れ」
半白の小柄な黒人給仕が辞儀をして、ワゴンを押して入ってきた。
キングは上機嫌だったが、給仕を見返ることなく、ゆるんだ頬をもとに戻して、リモコンに手をのばしてビデオを切った。だだっぴろいダイニングルームには朝日がさしこんで、キングのトレードマークである逆立つ銀髪を照らしていた。
給仕は長年そばに仕える身で、気難しい主人が、その後姿から、今朝は珍しくくつろいでいることを察した。
「旦那様、きょうはたいそうご機嫌よろしいようで」
「お前には関係ない」
「は、申し訳ございません」
給仕は黙って朝食の仕度をはじめた。キングは肘掛椅子をくるっと回して、その華奢な背中を見つめた。ひそかに笑った。
「ジョナサン、たまにはうまいものを食わせてやろうか」
給仕は手を止めて振り返り、主人の顔色をうかがった。
「どうだジョナサン、作るばっかりじゃつまらんだろ。たまにはうまいものを腹いっぱい食いたくないか」
「旦那様、どうかなされましたか」
「うまいものが食いたくないかと訊いているんだ。どうだ」
「は、申し訳ございません。そりゃ、いただけるものでしたらなんでも」
「何が食いたい?」
「よろしいんでございますか」
「かまわん、さっさと言え」
仕えて30年、あるじからの馳走などなかった。
しみったれな主人の打って変わった様子に戸惑いながら、ジョナサンは愛想をかえすつもりで応えた。
「そうでございますか。それなら極上のサーモン・ステーキを一度いただいてみたいと前々から思っておりました。ノルウェー産やスコットランド産のものは比較的出回っておりますが、もっと北、さいはての海を回遊するサーモンを、そのようなサーモンがあるならばいかがな味わいか、一度賞味してみたいと憧れておりましたので、よろしければそのようなサーモンのステ…」
「サーモン、ああサーモンな。魚だな」
「は」
「かもめは魚が好きだ」
「は?」
「かもめは魚が好きだと言ったんだ、違うか」
キングは冷たい視線を給仕に送った。
「いえ、仰るとおりで」
「昔、ジョナサンという名前のかもめがいたんだ」
「さようでございますか」
「魚だな、よかろう」
「本当でございますか。しかし旦那様、今わたくしが申し上げたような代物はおいそれとは手に入らぬかと」
「おれはドン・キングだ」
「は」
「ワインはいらぬか。魚料理なら白でいいか。赤がよけりゃ赤でもいいぞ」
「旦那様、いったいどうなされたのですか」
「たまには馳走してやる。ランチに届けさせてやるから愉しみに待っていろ」
「ランチにそんな豪勢なものを。旦那様、よろしいんでございますか」
「喉元すぎれば何を食ったっておんなじことよ」
「は?」
「昼に届くようにしてやるぞ」
「本当でございますか」
「いいかジョナサン、人間は気の持ちようだ」
「は」
「分を知ることも大事だ」
「は」
「お前が食いたい料理はな、マクドナルドのフィッシュバーガー1個とスモールのスプライトだ、赤ワインが所望ならコカコーラにしてやるぞ」
呆気に取られるジョナサンを尻目に、キングは高笑いをした。
キングの朝食はブラックコーヒー3杯とバターたっぷりの厚切りトースト2枚、スクランブル・エッグにベーコン、ハッシュド・ポテト、そしてボウルに山と盛られたシーザーサラダ、それらを腹におさめて、最後にフロリダ産のグレープフルーツをほおばる。ジョナサンが丁寧に剥いた、その一と房、一と房をまるまる1個分、食べる。ジュースにして飲みくだすことをキングは好まない。果実のまま口に入れなければその栄養価が薄れると思い込んでいる。
アルコールが残っている朝には、この紅い一と房、一と房が幼い頃に目にした甲虫や蛾の幼虫に見えたりするが、かまわず口にいれる。コレストロールを抑える効果があると、出会ったばかりの頃モハメド・アリが教えてくれたことを最近思い出して、それからは内輪の食卓に欠かさない。
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30年ほど前、キングは金銭をめぐるトラブルから殺人を犯した。刑期をつとめあげたキングは底辺から這い上がるために一計を案じた。数少ない友人の力を借り、博打の胴元で培った経験を生かし、たぐいまれな交渉術を武器にプロボクシングの興行を企てた。
一攫千金をもくろむキングが目をつけたのがモハメド・アリだった。
1960年のローマオリンピックで、アリは金メダルを獲得しプロに転向、64年にソニー・リストンを破って世界ヘビー級王座についた。リストンを返り討つなど9度の防衛を続けていたが、67年、ベトナム戦争への徴兵を拒絶したことにより、タイトルもライセンスも剥奪された。
アメリカという国家も人心も敵にまわしたが、3年後、国の敗訴でようやくリングに復帰した。アリがリングを降りていた間にチャンピオンになったのが、ジョー・フレージャーだった。フレージャーはアリがヘビー級王座についた64年、東京オリンピックで金メダルを獲得している。
ともに無敗の両者が拳を交えた頂上決戦は71年3月、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでのことだった。
最終15ラウンド、フレージャーの左フックでアリはダウンを喫した。その瞬間、リングサイドの観客2人がショック死をしたという風説が残っている。全世界にテレビ中継されたという点においても、この試合は画期的だった。以後、プロボクシングはメディアと結びつき、札ビラが飛び交うビッグ・ビジネスになっていく。
アリとの《世紀の対決》に勝利したフレージャーだったが、2年後の73年、これもメキシコオリンピック金メダリストのジョージ・フォアマンという黒人ボクサーに計6度のダウンを喫して、2ラウンド、無残に沈んだ。
そして74年10月、キングにとって大きな転機がくる。
無敵を誇るフォアマンにアリが挑む、世界ヘビー級タイトルマッチの興行を打ったのである。キングはこの試合を、アフリカはザイール(当時=現コンゴ)の首都キンシャサで行った。資金繰りに頭をいためながらもそんなことはオクビにも出さず、開催地の大統領や大立者を相手に丁々発止、一世一代の大勝負に出た。
試合は圧倒的不利の予想を覆して、アリがフォアマンをマットに沈め、7年ぶりの王座につく。衛星回線を介して世界60カ国以上に放映され、6億もの人が見たといわれるこの試合は、“キンシャサの奇跡”と語り継がれる歴史的ファイトになり、これを手がけたキングは、前科者という日陰の身から一挙に陽のあたる大舞台へ駆け上った。
成功に味をしめたキングは、その後、虚実ないまぜのあざとい手口でプロボクシングの世界を牛耳る存在になった。
ナプキンで口許をぬぐってから、キングは呼び鈴を押した。
「お呼びでございますか」
インターホンからジョナサンが応えた。
「ボブはどうした?」
「サップでございますか」
「なにぃ?」
「サップは、えーと、いつでしたかKO負けしましたが、あれからどうも精彩を欠いているようで、ここのところCMにも顔をだしませんし、ひところの勢いはなくなったようでございます。もしかしたら演技の勉強でもして、ひそかにプロレス転向をはかってるのかもしれません。そのほうがいいかもしれませんねえ。あのキャラクターはどうやらそっち方面に適しているんじゃないでしょうか」
「ばかたれ。誰がボブ・サップのことを訊いた? ボブだ。図体でかいばかりの、食いしん坊で間抜けでのろまで怠け者の、われら黒人の面汚し、ボブ・レイジィだ!」
「あ、そちらのボブでしたか」
「とぼけるな」
「は、失礼しました。ボブは、あの、ただいま呼んで参ります」
「遅い! もう9時半をまわってるぞ。9時には顔を出せとあれほど言っておいたのに、何をしてやがるんだ」
「あの、それが…」
「なんだ」
「いえ、実は朝から腹の具合が悪いといって、もうかれこれ1時間近くトイレから出て参りません」
「ばかもん。どうせまた夜中にコンビニをうろついて、ゴミ箱でもあさったんだろ」
「いえ、昨夜はパーティのあと、わたくしと一緒にK-1のビデオを見ておりましたが」
「ジョナサン、お前は何も知らんのだ。ボブはな、夜中にそこらをうろつき回っちゃ食いもんを拾いあさる癖があるんだ。充分なメシを食わせてもらっておきながら、ろくな働きもしねえで、がつがつするばっかりだ、あの野郎もそろそろお払い箱だな。いずれ警備会社から報告があがってくるだろう」
「あの、旦那様」
「なんだ」
「いえ、普段はどうだか分かりませんが、ボブは、昨夜はパーティーのあと、たしかにわたくしと一緒にビデオを見て、そのあと休んだはずです」
「済んだことなどどうでもいい。なめた真似しやがって。いいから早くボブを呼べ。あの野郎、クビだ」
「ク、クビ? 旦那様、ちょ、ちょっと待ってください。そんな、あの、いきなり、あの、クビだなんて、ボブは、あの、ああ見えても、気のいい奴でして、いえ、ほんとに、まさかそんな」
「うるさい! おれはいつだって、あんな野郎の一匹や二匹、切ってやる、いますぐにでもな」
陰険な顔つきでキングは怒鳴った。
「ボブを呼べ。今すぐだ。急げ急げ急げ! おれが書斎に戻るまでに奴が来なければ、即刻荷物をまとめて、ここから出ていってもらう。ボブにそう伝えろ!」
「はッ」
ジョナサンは大慌てでボブのいる使用人専用トイレへ向かって走った。
→ つづく