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■『あしたのボクシング』三好秀樹の怪遊記【37】■

2002年5月31日@サラ・ポリヴァレンタ(ルーマニア・ブカレスト)

WBAライト級タイトルマッチ
レナード・ドーリン vs ラウル・バルビ 2

 この両者は1月に打撃戦を展開し、挑戦者ドーリンが接戦の末、判定勝ちでタイトルを奪取、ルーマニア史上初の世界チャンピオンが誕生したのであった。その再戦が、祖国ルーマニアでの初の世界戦開催だった。

 ルーマニアといえば吸血鬼ドラキュラ…とともに浮かぶ光景がある。1989年12月、当時のチャウシェスク大統領夫妻の処刑直後のテレビ映像だ。独裁者の処刑によって成功した革命は、衝撃的だった…。

 航空券、いちばん安いアエロフロートは満席だった。理由はいたって簡単。日本と韓国で開催された、サッカー・ワールドカップの時期だったため、この観戦客たちでどうにもならなかったようだ。キャンセル待ちをしたが、望みはかなうことがなく、結局ブリティッシュ・エアウェイズで行くことになった。個人的にまったく興味のないサッカーのせいで何万も余計に払うハメになり、不満たらたらだった。

 成田から、目的地のルーマニアを飛び越えてロンドン・ヒースロー空港に着いたのは夕方。翌日の昼に出る乗り継ぎ便まで、持っていった小説を読むだけでは長過ぎた。

 夜、あまりの空腹に耐えかね、ハンバーガーでも買おうとしたが、ポンドなんて持ちあわせてないので、1,000円だけ換金した。しかし手数料を取られ、目当てのハンバーガーセットを買ったら、手元にはほとんど残らなかった。1,000円のハンバーガーセット…高い買い物だった。

 ロンドン経由という遠回りをしたあげく、乗り継ぎ便まで20時間近くも待って、ようやくブカレストに到着できた。オトペニ空港は薄暗くて活気のないところだった。ポーランドでの苦い経験を生かしてUSドルを持参していたので、今回の換金はスムーズだった。ドルって強いね…。

 市バスを利用して市内へ。20世紀初頭は「バルカンの小パリ」なんて称されるほど美しい街だったそうだが、雨が降っていたせいもあってか、同じ東欧のハンガリーとはちがってどことなく陰湿な印象を受けた。

 途中、車窓からは第一次大戦の勝利記念に建てられた凱旋門が見えたが、パリとはちがって周囲の華やかさも賑やかさも全くない風景だった。並木道を通り、英雄広場で下車。雨に濡れながらノルド駅へ向かった。

 事前に調べ、泊まろうと考えていた駅近くのチェルナ・ホテルへ入った。2人の青年がコーラを飲みながら談笑していた。フロントで宿泊する意志を伝えたが、満室。さてどうしようかと通りの向い側にあるホテルを見ていたところ、談笑していた青年の一人が声をかけてきた。「宿も兼ねてる俺の家に泊めてやろか?」と。不安だったが、代金の安さにつられ、誘いに応じた。

 マリオと名乗った、母親と2人住まいだというこの青年に案内され、2〜3分で彼の家に着いた。8畳くらいの居間で、壁際にはベッドも用意されていた。荷物を置き、再び外へ出かけた。日本を出発する前に手配を依頼した、試合のチケットを受け取るためである。

 タクシーに乗って辿り着いた、通称「ゴリラ・ハウス」と呼ばれている怪しげな敷地内を恐る恐る歩いていると、その一画に目当ての会社があった。社内では、日本人女性と現地スタッフの2人が出迎えてくれた。無事にチケットを受け取り、「ちなみに」とここまでのタクシー代を確認すると、どうやらまたしても法外な額を払っていたようだ。

 そんなこともあり、その女性は、ボッタクられないタクシー会社名を記したメモを与えてくれた。

 マリオの家に帰り、ひと眠りと思って横になると、疲れからか、目が覚めたのは翌日の昼前であった。夜の試合まで観光に出かけることにした。

 観光中、贅の限りを尽くして造られたチャウシェスク大統領の宮殿、国民の館の辺りで一人のイスラエル人青年に声をかけられた。それがきっかけで、再び思い出したくもない悪夢が始まったのだ。

 日本人女性を妻に持つという彼はしきりに治安が危ないと力説していたが、本当に危険なのはこいつ自身だった。「ぶらついているより早目に会場へ行ったほうが安全だ」と勧められ、まんまとトラブルの渦に巻き込まれていた。


 郊外にある会場まで俺が送ってやる、という彼の口車とタクシーに乗せられてしまった。会場のある丘のふもとで降り、またしても法外な料金を要求されたのだ。その挙げ句、こいつは「自分が市内へ帰るためのタクシー代を出せ!」とまで抜かしやがった。お陰で、またしても苦境に立たされ、僅かながら残った金を手に、自分の不甲斐なさに自己嫌悪に陥っていた。

 それでも、環境が人をそういう行動に走らせるのだと、自分を納得させながら丘を登っていった。眼下にブカレスト市内を見下ろせる緑の中に建つサラ・ポリヴァレンタは、さしずめ古びた公民館といった感じ。まだ時間が早かったので、スタッフは慌ただしく準備に追われていた。

 しばらくして、数台のトラックが現れた。後方から降りてきたのは、何と軍隊であった。銃を担ぎ、いかにも物騒な雰囲気である。「もしかして、噂に流れていた、コンスタンティネスク大統領が観戦に訪れるというのは本当だったの?」

 厳しい厳戒体制の中で始まった前座にはD・ブラウンという選手が出場していた。思い起こせば、99年の「デラホーヤvsトリニダード」戦の前座でV・ジロフに挑戦したのを見たことがあった。

 観客の誰もが待ち望んで始まったメーンイベントは、深夜遅くだった。第1戦の経験を生かし、優勢に試合を進めたのはチャンピオンのドーリンだ。

 前へ前へと出るチャンピオンはダウンを奪い、明白な判定で勝利を飾った。そして、いつも同様、試合終了と同時にこみ上げてくる不安…。

 意気揚々と帰宅するみんなに紛れ、丘を下っていった。どうやら大統領は来てなかったらしい。やはりただの噂だったのか…今度こそチャンピオンのドーリンを見習って、今までの経験を生かさねばならないと痛感していた。もしも万が一、タクシー代が足りなかったら身の危険すら感じたからである。

 前日に受け取ったタクシー会社を記したメモを開き、慎重に探した。結構タクシーの需要も高く、約1時間近く待って、ようやく望む会社のタクシーを捕まえるのに成功した。極度の緊張に耐えながら宿泊先に着くと、幸運にも普通の料金で救われた。

 翌朝、市バスを利用してオトペニ空港へ行けたことによって、念願の帰国ができることを実感した。様々な綱渡りを終え、帰りの機中でつくづく思った。

「もう東欧はコリゴリラ…、いやコリゴリだ…」


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