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■『あしたのボクシング』三好秀樹の怪遊記【36】■

2002年4月19日@ラディソン・SAS・ファルコーナセンター(デンマーク・コペンハーゲン)

WBAバンタム級タイトルマッチ
エディ・モヤ vs ジョニー・ブレダル

2002年4月20日@ハーラ・オリーヴァ(ポーランド・グダニスク)

WBO Lヘビー級タイトルマッチ
ダリウス・ミハエルゾウスキー vs ジョーイ・デ・グランディス

 前回の旅行から5カ月も間隔が開いたのは、自慢じゃないけどこの当時の自分にとってはかなりの珍事。“封印”をといたのは、未訪問国だった。

「モヤvsブレダル」戦は当初4月12日に予定されていて、13日にイタリアで開催予定だった世界戦を併せて観に行こう、と思い巡らせていた。イタリアは、どうしても行っておきたい国の一つだったっが、12日予定の試合は1週間延期になってしまった。迷った。

 再考し始めや、20日にポーランドで世界戦が行われることを知り、GOサイン。イタリアは今後の宿題にし、デンマークとポーランドの周遊を選択した。航空券予約はキャンセル待ち状態だったが、4月に入ってなんとか確保できた。

 しかし出発日が近づくに連れ、当地ではよろしくない事件が次々と報道された。日本人女子留学生がコペンハーゲンで失踪し、背後には北朝鮮の影がチラホラ…。拉致された可能性が高いようだった。

 これとは別に、サッカーの親善試合で訪れていたイスラエルに対する抗議デモが“発展”したらしいという、市内での暴動もあり。チャンピオン、モヤの祖国ベネズエラでも政情不安から空港が閉鎖されたとか…。陣営は前日に難を逃れて出国していたらしかったが、不安を煽られる様々なことが起きていた。

 成田からコペンハーゲンへ向かうスカンジナビア航空の機内で読んだ新聞には、カラー写真つきで暴動の様子が生々しく報じられていた。

 12時間のフライトで、コペンハーゲン・カストロップ国際空港着。直結された鉄道で10数分走り、中央駅へ。早速、観光案内所で教えられた市バスを利用して会場へ向かった。このバスが満員で窓の外が見えず、隣に立つ人に確認しながらなんとか目指すところで下車した。


 地図につけてもらった印を頼りに探したが、まったく見当たらず右往左往店…。看板やポスターなど、ボクシングを感じさせるものも何も見当たらず、困り果てた。こりゃ誰かに聞くしかないとラディソンSASホテルとやらに入り、スタッフに訊ねた。勝手に独立した建物(アリーナ)なんだろうと想像していたら、なんと探していた「ファルコーナセンター」はこのホテルの中だった。

 無事に試合会場は見つかり、当日券も購入でき、ようやく安心できたところで、荷物を下ろすべくユースへ。地図を見ながら歩くこと約15分。問題なく泊れると決めつけていたが、なんと満室。他を探さざるをえなかったが、試合時間が迫っていたので再度会場へ引き返した。

 ファルコーナセンターは、パシフィコ横浜のような劇場型だった。パシフィコのほうが大きいが、無理にリングを設置しているところはそっくり。7時頃に始まった前座試合では、スペインで観たJ・カスティジェホ戦の挑戦者だったM・ラスクも登場していた。いつのまにか舟を漕ぎ始め、頭がこっくりこっくり揺れた。睡魔は強かった。こんな状態でメインまでフルに見るのは大変だった。

 ゴング前に両者がリング中央で向かい合ったときは驚いた。モヤが低すぎるのか、ブレダルが高すぎるのか、同じクラスと思えないほどの身長差だった。

 リーチ差を生かして距離を保つブレダルの懐に入ろうとするモヤだったが、なし得ずに変化のない展開で進んだ試合は、9ラウンドに突然終わった。ブレダルの目の覚めるような右一発を喰ったモヤは長々とキャンバスに横たわった。

 試合終了は12時すぎ…。ヨーロッパではどこの国の興行も終了が遅すぎる。こんな時間から宿を探さなければいけない旅行者の身にもなってほしい!

 4月のデンマークの夜は、まだまだ吐く息も白い、震えるようなキビシい寒さだった。街灯の下で地図を広げ、歩いてようやく探し当てたところも満室…。深夜1時もすぎ、途方に暮れ、行き場を失った。

 しかしあと4時間もすれば空港へ行く鉄道も動き出すだろうと開き直り、こんな時間から観光することにした。デンマークに来る機会はそうはないだろうと思い、とにかく見ておきたい名所が一つだけあった。アンデルセンの原作で有名な人魚の像だ。

 こんな時間にも営業していたピザ屋で暖をとり、空腹を満たした。

 人魚の像へ向かう途中、マルグレーテ2世女王が住むアメリエンボー宮殿があった。この厳寒の中、銃を抱いて巡回する衛兵が宮殿を守っていた。時折、踵を合わせるときに発せられる音が広場一帯に響き渡った。

 暗闇の中、道に迷うこと約2時間。執念の末、人魚の像にたどり着いた。昼間だったらたくさんの観光客で賑わい、その流れに乗っていけば難なく着いたんだろうが、この時間じゃ望むべくもない。

 深夜3時をすぎると、さすがに人気はまったくない。最初で最後の、「2人きり」での対面だった。大きな岩に座っている彼女の姿は、一人寂しく悲しげに、何かを待つように海を見つめているようだった…。

 人魚に別れを告げ、空港へ向かうため中央駅へ。早朝営業していたマクドナルドでコーヒーを飲みながら、疲れた足を休めた。ついにデンマークも“制覇”したという感慨に耽ったが、時間の余裕があればもっといろんなものを見ておきたかった。いまは国会議事堂として女王謁見の間として使われているクリスチャンスボー城、往時の権力者が建てた別荘で現在は宝物館となっているローゼンボー宮殿…などなど。

 かつてこの地でタイソンが闘ったパーケン・スタジアムにも足を運びたかったが、叶わぬ夢となってしまった。心残りではあったが、次の訪問地・グダニスク(ポーランド)へと旅立った。

* * * * *

 数十人乗りの小型プロペラ機で、コペンハーゲンから南東のバルト海上空を通過してグダニスクへ。ハンガリーに次いで、2カ国目の東欧訪問だ。

 2時間のフライト後、レンビエホヴォ空港に到着し、ようやくプロペラ振動から解放された。バルト海に面した港湾都市・グダニスクは、ポーランドで最も美しい都市とされ、琥珀の名産地だ。

 1939年のドイツ軍奇襲攻撃により第二次世界大戦がぼっ発してから、グダニスクは独ソ戦の激戦地となり、市街地の90パーセントが焦土と化してしまったそうだ。戦後、市民の熱意と努力で見事甦ったのだ。

 無事に入国手続きを終え、観光案内所へ。しかし“無事”だったのはここまで。思い出したくない悲惨な事態に巻き込まれていった…。

 親切そうな女性スタッフに教えられ、両替所へ行ったはいいが、この空港では日本円との両替はできないのだった。ボクシングを観るどころか、ここから外へ出ることすらままならないのかと焦りながら相談すると、「タクシーを呼ぶから日本円が換金可能な銀行まで連れて行ってもらい、そこで代金をはらいなさい」と救いの手を差し伸べてくれた。

 案内所の女性スタッフに笑顔で送られ、事態の好転に気をよくした。言葉の不自由を察してか、ドライバーは換金の手助けまでしてくれ、市の中心部にある「タイガー・パブ」へと行ってくれた。この店の経営者はあのミヒャエルゾウスキーである。


 そこで試合のチケットも購入し、ドゥウーギ広場まで送ってもらい、言われた料金を支払うと、手元に残ったお金はほんのわずか。日本円にして1,000円くらいだったろうか…。あと2日滞在するのにこれしかないよ…と放心し、その場に立ち尽くしてしまった。どう考えてもあのタクシーがボッタクリだっただけだが、後の祭りだ。

 納得いかないまま地図を手にユースへ向かった。また満室だったら…と考えると気が気じゃなかったが、フロントで確認して不安は拭えた。10人ほどのドミトリーだったが、他のベッドはすべて使われている様子はなかった。

 夕方まで一眠りしたあと、中央駅から郊外電車で試合会場のあるオリーヴァへ。ドアのついてない古い電車で、老婆や学生らの市民に混じって約20分揺られた。着いた駅近くの公園にはオリーヴァ主教会が建っている。ここには世界で最も美しい音色として有名なパイプオルガンがあるのだが、聴くことはできずじまいだった。

 この駅から15分ばかり歩き、まだ開場していないハーラ・オリーヴァまで来た。地元の人たちにジロジロ見られながら、この会場の外で長時間待つハメになった。日本人(外国人)なんかめったに見ないから不思議だったんだろう。

 開場されて中に入っても、寒さは外と変わらず。今日こそは遅くならないうちに終わってくれと期待していたら、懐かしい姿を見かけた。1年ばかり前にハンガリーで観たI・コバチが出場していたのだ(それだけなんだけど…)。

 メインに出るミヒャエルゾウスキーは20度も防衛を続けていながら、祖国ポーランドでのタイトルマッチは初めてだった。リングサイドの放送席と自分の席を挟んだ通路を放送スタッフが何度も行き来した。もしやここが花道?の想像どおり、真っ赤なガウンを身につけたチャンピオンが目の前を通ったときは気分が高まった。

 緊張の中で開始のゴングは鳴り、挑戦者に抵抗らしい抵抗をさせないまま、2ラウンドで圧勝。内容の善し悪しはともかく、我が街のヒーローが快勝した。会場中が歓喜に沸いた。

 しかし今日こそは早く…の期待はまた裏切られ、試合が終了したのは夜12時すぎ。さらなる苦難をなめさせるかのように、雨まで降り出し、ただでさえ寒かった屋外は凍てついた。

 最寄り駅に着いたはいいが、乗車券売り場の窓口は全部閉まっていた。おそれていたことが起きつつあった。終電は出てしまったのか…と。乗客は続々とこの駅に流れてくるが、みなあらかじめ買っておいたらしい切符を手にしていた。

 電車は来るようだけど、切符が買えない…。聞けば、車内でも買えるようだったので、安心して来た電車に乗った。しかし切符売りが来ることはなく、じきにおりる中央駅に着いてしまった。大勢に紛れて下車したが、誰も無関心。心は揺れたが、結果的に無賃乗車をしてしまった。まあいいか…な。

 翌日は天候回復し、気持ちのよい晴天に恵まれたので、観光に出かけた。グダニスク旧市街の表玄関である高い門、ブラマ・ヴィジンナから、拷問する目的で建てられたという囚人塔、そして世界的にも稀少価値が高いといわれる木造クレーンを観て回った。

 街はずれにあるグダニスク造船所は、1980年にクレサ前大統領が自由を求めて立ち上がった場所だそうだ。そしてその前に建つ連帯記念碑は、政府の厳しい弾圧に抵抗して犠牲になった労働者たちの霊を弔うために建てられたとか。

 中央駅から市バスに乗り、ヴェステルプラッテへ。昼下がり、年配の女性群にまじってこのバスに揺られること30分、1939年にドイツ軍艦からの攻撃によって第二次世界大戦の火蓋がきって落とされた地に着いた。

 圧倒的兵力で迫るドイツ軍相手に、たった182名で1週間にわたって勇敢に抵抗したという、この地の人の守備隊。バルト海を見下ろす小高い丘へ行く途中も、破壊されたままのトーチカがいまも残されていた。

 戦争反対のを訴える記念碑、戦後ソ連から贈られたという戦車が1台展示されていた。日本にいる友人を思い、ここで必死に戦ったという兵士を想像しながら、バルト海をしばらく見つめていた。

 市内へ帰る頃は日も暮れていた。翌朝、市バスで空港へ。

 助けてもらった観光案内所には、2日前と同じ女性がいた。目的を果たせたお礼を言いに近寄ると、気味が悪いくらい不自然にニヤニヤしていた。「タクシー代、いくらだった?」だと。ボッタクリ(誰が来ても同じだったんだろうけど)とわかってたのだ。そういう土地柄なんだ。悔しくて苦しかったが、許すしかない…。

 グダニスクからコペンハーゲン経由でなんとか帰国できた。

 それにしても最後の2日間は、ひもじい思いをした。いくら日本に比べて物価が安いとはいえ、1,000円相当くらいしかないんじゃな…。思い出したくもない高い“授業料”を払わされ、いつも以上の金欠旅行になってしまったが、われながらよく凌げたと、いまも思う。


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