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■『あしたのボクシング』三好秀樹の怪遊記【22】■

2000年5月25日@エスタディオ・マルビナス(アルゼンチン・メンドーサ)

WBAフェザー級タイトルマッチ
フレディ・ノーウッド vs フリオ・パブロ・チャコン

 ある日インターネットで、メンドーサで5月25日に世界戦を開催すると発表した記事を読んだ。南米ということもあり、かなり不安だったが、日本の真裏に近いアルゼンチンに行くと決断したときは、よもやイギリスやイタリアよりも先になろうとは思わなかった。

 海外では変更や延期、中止はつきものだけど、航空券の予約を依頼した。南米に強い旅行会社に、試合についても調べてもらった。確かに予定されているとのことだった。

 その後、チャンピオンがアルゼンチン行きを嫌がって、王座返上したいとか、防衛戦でなく王座決定戦になるらしい、とか情報が錯綜していた。チケット(が買えるかどうか)も不安であった。旅行会社に問い合わせると、空港への送迎、ホテル、観光のセットであればチケット手配可能との返事だったが、不必要に出費をしたくはなかったので、当地でのイチかバチか…に賭けることにした。片道33時間から38時間もかかるアルゼンチンへ行くというのに、また無謀な判断だったかと毎日心配でならなかった。

 ノースウエストでニューヨークまで行き、アルゼンチン航空で首都ブエノスアイレスへ飛んだ。機内食のアルゼンチン料理(?)はあまり口にあわなかったのを覚えている。この長時間フライトの間、一体何をして過ごしていたのか不思議である。

 はるばる到着したブエノスアイレスでは、国際線用のエセイサ空港から国内線用のホルヘニューベリー空港へすぐさま移動しなければならなかった。

 空港移動用のエアポートバスに乗ったが、途中朝の渋滞に遭い、止まって動かなくなることもしばしば。徐々に内心では焦っていたがここでもやはり自分は無力だった。3時間あった乗り継ぎ時間もあっという間に過ぎ、ホルヘニューベリー空港へ着いた時は、すでに1時間を切っていたと思う。この空港はラプラタ川沿いにあるこじんまりしたところだった。

 ブエノスアイレスから西へ約2時間。アンデス山脈のふもとにある街メンドーサへ到着した。山脈を挟んだ向こう側はチリだ。原っぱに滑走路が伸びている、とにかく周りに何もない空港だった。箱型のターミナルがポツンとあるだけで、活気も全くといっていいほどなかった。もしチャンピオンがこの街へ来たとしても、本当にこの空港に自分と同じく降り立ったのだろうかと疑問に思ったほどだ。市バスがなかなか来なかったので、しかたなくタクシーで街に向かった。途中、壁のいたるところに地元の挑戦者のポスターがたくさん貼ってはるのを見て、“試合はあるんだな”と少し安心した。

 5月のメンドーサは秋口だったので、道には黄色い葉っぱが散っていた。それがさらにこの街を物静かに感じさせたのだろうか。 ホテルのフロントで教えてもらったチケット売場に行ったが長い昼休みのため、閉まっていたので、少しベッドで休んだ後、改めて行った。列に並んでいる時はいつも不安だが、チケットを買えたときは本当にホッと安心する。 夜はまたしてもマクドナルドで済ましてしまった。たかがマック…。でもアメリカ、韓国、フランス、スペイン、ドイツに続いて6ヶ国目だ。

 翌日、試合当日は革命記念日ということで、市内ではパレードが行われていた。流れの中には軍用トラック、大砲、装甲車等も走っていた。市内の革命広場には戦闘機や戦車、機関銃などいろんな軍事関係の物が展示されていた。市内の西側に試合会場のある広大なサンマルティン公園があった。ホテルでもらった地図を頼りにのんびりと歩いていった。チケットには15:00試合開始と記されていたが、会場のサッカースタジアム「エスタディオ・マルビナス」にはずい分と早く着いてしまった。


 滅多に体験できないぜいたくだと思い、リングサイドの席をとっていたので、ゲートからフィールドの芝生の上を歩いていった。安い席のスタンドの方を見上げながら、実は内心ひとり勝手に優越感に浸っていたものだ。

 そのための罰か、試合中とんでもない目にあった。TV中継用のカメラマンがずっとリングのエプロンに立っていたので、スタンドの客にとってはそれが邪魔だったようだ。ブーイングが起こる中、後頭部に激しい衝撃があった。

 一瞬何があったのか全く分からなかった。

 頭クラクラしながら足元を見ると、丸いフランスパンが転がっていた。周りを見渡すと、中継用カメラマンへの抗議にスタンドからペットボトルやその他いろんなものがリングへ向けて投げられていたのだった。その一つがたまたま自分に命中したわけ…。

 そう言えば、自分の前に座っていたスーツ姿の観客にはみかんが命中していた。内心腹も立てたが、この一件だけのためにアルゼンチンを嫌いになりたくないと気持ちを切り替えようと努力した。

 その日の客の雰囲気はまるでサッカーの試合の客の盛り上がりと同じだった。

 地元挑戦者のダウンがあり、ゴング後のチャンピオンのレイトヒットありで、もし挑戦者がKOでもされていたら暴動になりかねない危険を感じた。結局、チャンピオンが“安全運転”をして12R判定勝ちで防衛したのだが、リングから降りて控え室へ戻るときもガードマンに囲まれ、前後左右、さらに上と防御用シールドで守られるという、ものものしい場面だった。

 この日はアマチュアの試合とプロが一試合にタイトルマッチと計3試合という少ない興行だった。試合前、会場の上空では航ショーが行われていたが、これをやってる時間の方が長かったんじゃないか…。

 翌日、ホテルで呼んでもらったタクシーで空港へ。チェックイン後、フライトを待っている時は、目的を果たせた満足感一杯だった。しかし、それも束の間、搭乗アナウンスがありゲートへ向かいパスポートのチェックを受けたのだが、なにが疑わしかったのか、自分ひとり塔乗客の視線を浴びながら別の場所へ連れて行かれた。

 どこから入国したのか? チリへ行ったのか? などと聞かれ、最後にはパスポートに入国スタンプが見付からないとまで言われた。そんなはずはなかった。なぜなら、ブエノスアイレスでスタンプを押してもらったのだから。ページをめくり、それを示すと厳しい顔から一転ニコニコして、問題はないと解放してくれた。人騒がせなやつらである。

 タラップを上がり機内に入ると、席に着いて出発を待っている乗客の視線をまたも浴びた。みんなして「さっき連れて行かれた人だ。この人は何者? 乗せて大丈夫なの?」と言わんばかりの表情をしていた。

 ホルヘニューベリー空港へ到着した時のラプラタ川の向こう側に沈みゆく夕陽がきれいだった。ブエノスアイレスに来る機会も二度とないだろうと思い、その夜のニューヨークへのフライトまで5時間程あったので街へ行ってみることにした。

 とにかく一度あのエビータも演説した事のある「カサ・ロサーダ(ピンクの家)」と呼ばれている大統領府を見ておきたかったのだ。

 空港から市バスでカサ・ロサーダのある五月広場に向かった。しかし、この時も、夕方の渋滞に遭い進まなくなった。市内を走る車の数はかなりの量だった。焦る気持ちを抑えながら、ようやく着いた5月広場の近くでバスを降りたが、目的の建物は見つからなかった。というより、カサ・ロサーダのそばにいたのだが裏手にいたため、気付かなかっただけなのだ。とにかく渋滞のお陰で、時間が無くなりつつあったので、正面まで走って回った。

 結局、ライトアップされた大統領府を眺めて、すぐにその場を後にした。持っていたたった一枚の市内地図のコピーを片手に空港行きのバス停まで急いで走った。途中に通った中心街のフロリダ通りでは、タンゴを踊る人達を横目に走っていた。

 通りを抜け途中迷ったが、何とかバス停を探し当て、空港に着いた。ひとつ気がかりだったのは出発便の掲示板にあるニューヨーク行きの欄だった。他のフライトは全て空白だったが、ニューヨーク行きだけ右端にポツリと単語が見て取れた。

 スペイン語だったので、想像した「ディレイド(遅延)」に一抹の不安が横切った。チェックインカウンターで想像していた事態を告げられた。翌朝に変更ということだった。しかしそれじゃニューヨークから成田行きの接続便に間に合わない…。

 以前、2度目のスペイン(怪遊記19参照)からの帰り、チューリッヒ発のフランクフルト行きが雪で欠航になった時は帰国できないかと思ったが、今回はそれ以上のピンチだった。

 カウンターの職員に指示されたアルゼンチン航空の窓口へ行き事情を説明した。今となっては何と言ったか覚えていないが、必死のカタコト英語で伝えた。すると女性スタッフが、その夜の全ての航空会社のニューヨーク行き便を調べてくれたが「一便もない」との回答だった。お手上げの状況だったにもかかわらず更に訴え続けると、やがて立ち上がって、別室に消えて行った。

 しばらくして戻って来て、彼女から説明を受けた。一日遅れの同じ時間で「ブエノスアイレス発ニューヨーク行きと、ノースウエスト航空での成田行きも改めて予約するので、市内のホテルに一泊して頂きたい」との結論だった。そして「あした夕方にバスを用意するので、それに乗って空港に戻ってきて下さい」とのことだった。

 ホテル宿泊券を受け取り、準備されいていたバスへと向かった。再び市内へ戻ることになろうとは思わなかった。そのため、勤務先に伝えてあった日に帰国することもできなくなったわけだ。車中、何も見えない真暗な窓の外を見つめているしかなかった…。

 しかし驚いたことに、用意されたのは、コロン劇場の向かいにある“4つ星”のコロン・ホテルであった。サービスされたディナーもステーキだったので大満足。

 チェックインの時、電話が何分かはフリーとのことだったが、すでに東京は土曜日になっていたので、フロントで便せんをもらって勤務先にFAXを流した。地球の真裏近くからFAXで帰国が一日遅れることを伝えられるのだから便利な時代である。

 翌日、バスが迎えに来る夕方まで時間があったので街に出かけた。歩いているうち5月広場にたどり着いた。前夜、最初で最後と思い訪れたカサ・ロサーダのある広場である。バッグ一つ持って急いでいる自分が頭に浮かんでいた。地図を頼りに歩き回っていたが疲れたので一度ホテルに戻ると、フロントマンに呼び止められた。ひとつの宣告を受けるために…。

 その夜もアルゼンチン航空が「遅延」になったのだった。またしても、それぞれのフライトが一日“順延”した。一日にして二度も東京へFAXしようとは…。もともとブエノスアイレスに立ち寄る予定ではなかったのでラッキーではあったが、さすがにもう帰りたくなった。

 順延2日目の夜、突然部屋の電話が鳴った。誰も知り合いのいない街で電話がかかってくると不安である。おそるおそる受話器を取ると、ぎこちない日本語が聞こえてきた。翌日のフライトについての説明だった。

 アルゼンチン航空側がニューヨークへのフライトをアメリカン航空に予約変更したので、空港に着いたら、アルゼンチン航空の窓口で新しい航空券を受け取ってほしいとのことだった。そのいきさつも理由もよく分からないのにそれを英語で伝えねばならないと思うと、憂鬱になった。

 翌日、不安な気分のまま、窓口に行った。が、案外すんなりと、新しい航空券を受け取れたので助かった。アメリカン航空のチェックインカウンターへの列では、出国客一人一人に口頭で質問していた。もちろん自分も例外ではなかった。

 航空会社を変えた理由を聞かれて困った。その後も入国目的は何かだの、いろいろ聞かれた。搭乗券を受け取り、出国後コーヒーを飲んでやっと帰国できるのを実感できた。

 フライトが変更になったことで、ニューヨークでの乗り継ぎ便までも7時間くらいあったが、約38時間で日本に着く予定が結局80時間以上もかかったことになる。およそ3日半である。「遅延」の理由を聞くことはできたが、答えが難しい英語で返ってくるだろうと思い、あえて聞かなかった。今もって理由は謎。

 いろいろ面倒なことがたくさん起きたが、救いだったのはこの「遅延」が行きではなく帰りであったことである。もし行きだったら、試合を観ることもできず、悔やんでも悔やみきれなかっただろう。とにかくいろんな事態が発生し、強烈な印象があるので、その場にかかわった人々の顔が今でも何となく脳裏に浮かぶ。

「遅延」になった事で根気よく応対してくれた女性職員、コロンホテルのフロントマン、メンドーサのホテルの人。それに試合前にリングサイドで座席の準備をしていた、沖縄に友達がいるというエミースィア、「遅延」の影響でコロンホテルでディナーを共にした韓国の貿易会社の人たち…。

 今現在も、その人たちはその人たちの世界で生きているのだと思うと不思議な感じを覚える。できることならもう一度会ってみたいものである。

 だらだら長くなってしまった…。読んでくれてありがとうございます。


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